☆西独通信☆
昭和37年に富士通に入社し、伝送試験部門に配属になり2年後、私費留学で休職
したいと申し出たら会社からOKが出たので昭和39年(1964年)7月から2年間、
主として当時の西ドイツのシュツットガルトに学生生活の拠点を置き、暇を見つけて
欧州各地を旅行し、そのおりおりに絵葉書、アエログラム(航空書簡)や手紙で便りを
送った。
受信した郵便を親父が1通ずつスクラップブックにセロテープで留め、受信日を
書き込み、その表紙には”西独通信”とタイトルをつけて大事に保管してくれていた。
40年経った今、各頁のセロテープが硬化して皆バラバラに外れ、変色も目立つ。
そこで今回電子記録に残そうと思い立ち、イメージスキャナーで読み取り、手紙は
整理しながら改めて読みかえすと、なんとひどい(無礼な)内容の便りを両親に送って
いたことか。 恥ずかしい思いと申し訳ない気持で一杯です。
以下は、到着後しばらくつけた日記(メモ程度)もまじえ手紙類と持ち帰った資料から
その内容をまとめたものです。
なお、アエログラムと一部の資料はPDF ファイルになっていますので、開くには
アドビのリーダーが必要になります。無料ダウンロードはこちら
1964年7月時点で私(茂)24歳、父54歳、母45歳、妹(紀子)19歳の若き時代でした。
因みに、1964年とはどんな年だったのか?
▲1ドルが360円
▲この年の4月から海外渡航が自由化され外貨枠が一人500ドル/年受けることが
できるようになった。
(私は私費留学試験を受けて6000ドルの外貨枠を取得した。)
▲8月アメリカ駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受けて交戦する
(トンキン湾事件)。この事件でアメリカ議会は大統領に戦争に関する絶大な権力を
与えてしまう。アメリカ機が、北ベトナム基地4ヵ所を報復爆撃する。
トンキン湾事件で、国連安保理が開催される。アメリカ上下両院が、大統領に
戦時権限を付与する。米軍のベトナム介入が開始される。
(戦争終結は1975年4月 フォード大統領がサイゴンから全米兵の撤退を命令)
▲9月羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレールが開通する。
▲10月に東京オリンピックがあった。東洋の魔女といわれたバレーボール女子が
金メダルをとった。
▲10月に東海道新幹線が開業した。
▲1年前の11月にジョン・F・ケネディ大統領がオズワルドに暗殺された。
ビックリすることは当時の航空運賃が給料と比較してべらぼうに高かったことです。
ミュンヘンまでのエコノミーの航空運賃が\243,950 (US$677.60)
一方、私の給料は(たまたま保管してあった資料から)1962年入社時\12,830
1964年で\18,250だった。実に給料の13倍も高かった。
2年間の概略スケジュールは以下のとおりです。
1964/7/28 羽田から南回り マニラ、バンコク、カイロ、
アテネ、フランクフルト経由 ミュンヘンへ
1964/8/4〜1964/9/28 ドイツ語会話学校 Goethe Institute Grafing校
1964/10/1 Stuttgart に移動
1964/11〜1965/2 Technishe Hochshule Stuttgart 聴講生
1964/12/中 ベルリンへバス旅行
1965/3/中〜4/初 イタリア旅行
1965/4/中 パリ旅行
1965/5〜1965/7 Technishe Hochshule Stuttgart 聴講生
1965/6/5〜1965/6/10 ルクセンブルク、ベルギー、オランダ旅行
1965/8 北欧(デンマーク、スエーデン、ノルウェー)旅行
1965/9〜1965/10 フランス リヨン大学フランス語会話夏期講座受講
1965/11〜1966/3 ミュンヘンのSiemens中央研究所にて設計・試験実習
1965/末 アテネ旅行
1966/4/中 オーストリア、チェコ、ハンガリー旅行
1966/4/末〜1966/5/中 スペイン、ポルトガル旅行
1966/5/18 マルセイユから貨客船で1ケ月かけ横浜に
寄港地;ポートサイド、アデン、ボンベイ、コロンボ、
シンガポール、バンコク、香港、マニラ、神戸
1966/6/22 横浜着
欧州滞在中の記念資料1
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1964年7月28日 (火)
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正午、皆に見送られて税関に入る。パスポート検査の時、まず「あなたはドイツの
ビザを取っていませんね、ビザがなくても日本から出国はできるが、向こうで
ごたごたが起こっても責任はもちませんよ」と言われた。
それでなくとも、T氏 (父の知人で年配の旅行代理店の人) に入国する時
パスポートの他に,入学許可書を見せるのだと言われ、それが、出発の間際だった
ので入学許可書は、大型トランクに入れてあり、それは計量が終っていたので
取り出すわけにいかず、しかも向こうに着いたら入国検査の方が税関よりも
先に行われると言われたので、何故もっと早くそれを言ってくれなかったのかと!
頭に来た。
仕方がない。この場になってどうしようもない。なるようになると飛行機に乗り込んだ。
T氏はKLMには、日本人のスチュワーデスは乗っていないと言ってたが、
バンコクまでは乗ってた。
でも結局は外人でも簡単な会話で話が通じたので不自由はしなかったが。
わりに空いていたので3人づつの座席も僕の列は僕以外、空席だった。
外人の横に座るよりは、やはり気持は楽だ。
最初の到着地のマニラに着くまでは、足が文字通り宙に浮いた感じで
落着かなかった。(この時生まれて初めて飛行機に乗った)飛行機の乗り心地は悪くなかった。
マニラの空港で同行の大阪の大学の若い音楽講師及び京都大学の医学博士で
内科の講師と知り合った。
医学博士はヨーロッパは初めてだが、アメリカに行ったことがあるそうで
英語はペラペラ。カイロで降りた。
音楽講師の方は、僕と同じで海外は初めて。彼もフランクフルトまで行くことが
わかり心強くなった。
ところでバンコクに着く前にマニラの時よりもひどい気圧の変化で耳がジーンと
痛くなった。 空港は雨、暗くなってきた。バンコクを出る時はもう夜だった。
それからカイロを過ぎるまで長い夜が続いた。
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1964年7月29日 (水)
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アテネに着く頃夜が明けた。
いよいよヨーロッパに来たんだという気がした。そしてフランクフルトに朝
8時半に着いた。
ここで同行の音楽講師とはお別れ。彼はStuttgartに向うとのこと。
僕は午後の便を選んだので5時間近く空港で待つはめになった。
そしていよいよミュンヘンに。 近くのGrafingという町にゲーテ・インスティチュート
というドイツ語会話学校の1つがある。最初の2ケ月はそこで会話を習うことに
なっていた。
さて、Hotelだが案内所で場所を訊ねたら、予約してあったカードの住所が
違ってると言われた。
T氏から電話番号を聞いてあったので確かめることにした。
でも着いて早々ドイツ語で電話をかけることになるとは予想もしなかった。
相手の住所を訊いて早々に切った。確かに違っていた。
地図で調べると有名なビアホール”ホフブロイハウス”の向かいの一流Hotel
だった。(Hotel Platzl) T氏にまた一杯食わされた感じだ。(?)
さて、Hotelまでだが市電の停留所に向ってトランク片手に100mも歩いたら
手がしびれてきた。仕方なく近くの(高くつく)タクシーをつかまえHotelへ。
(もともと市電で行こうと考えたのは無茶だった)
さすがに30時間の空の旅で疲れた。シャワーを浴びる元気はなかった。
Hotelに着いても体が上下に揺れてるような気がした。
エアポケットに入る時の感じだ。
エレベータで急降下する時の感じだ。
立ち止まると左右に揺れる。睡眠不足のせいもある。
何も食わずに直ぐ寝た。夕方5時半頃だった。
そして夜中の12時過ぎに騒音で目が覚めた。
その騒ぎは、車の出入りと人の歌声のためだ。僕の部屋が丁度隣の
ビアホールの真向かいにあるからよけいひどかった。
3時近くまで続いた。騒ぎが静まった頃また寝た。
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1964年7月30日 (木)
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朝7時に起き、Hotelでパンと紅茶の朝食をすませて外に出た。
午前中は、近くの公園で老人相手に会話?した後、ADAC(自動車免許事務所)
に出向き、日本で英訳された証明書を独語に翻訳して証明してもらった。
(この書類で運転ができる)
Mさん(富士通のシーメンス駐在員)に電話をいれたが、この2、3日
忙しいので都合の良い時にこちらに電話をもらえることになった。
後、中央駅まで行って昼めし、と言ってもパン、ジュースとソーセージ食べた。
みんな思ったより高い。それにバナナ8本(200円位)買った。
バナナは、Hotelに持ち帰り、食べたが半分腐っていて癪にさわった。

中央駅 |
午後、待望?の洗濯をし、シャワーを浴びて、夕方また外出。
夕食も近くでパンとハムとコーヒーで済ませた。やたらと喉が渇き
水はまずいのでコーラを(下戸のため)よく飲んだ。このままだと栄養失調になりそうだ。
KLMの機内のサービスが羨ましくなった。
何故ッて機内では、食欲がなく、うまそうだったが残した。
それに、ジュース、コーヒーなど飲み放題だったから。
今日1日で10kmは歩いただろう。疲れた。
そろそろ車の出入りの音が激しくなり煩くなってきた。嫌になる。
今日感じたことは;
信号のない大通りを渡る時、少し怖かった。(車の通行が日本と左右逆のため)
公園や広場が多く、ベンチが沢山あり、そこに座ってるのは、老人ばかり
目に付くこと。周りになついたハトが沢山いること。など
今しがた、Mさんから電話があり、明晩都合がついたので食事を、と誘われた。
前のビアホールの奇声が一段とひどくなってきた。
実家に出した安着の絵葉書
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1964年7月31日 (金)
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今日も朝から市内を歩き回った。どこに何があるか、どこで買えば安いかが
分かってきた。夕方、Mさんご夫妻が車でNymphenburgの城を見に
連れて行ってくれた。帰りに中央駅近くのレストランでご馳走になった。そこで
食事の注文の仕方やカルテ(メニュー)の説明を細かくしてくれた。
(その後の生活におおいに役だった。)
絵葉書 1.0
切手 2.0
エログラム 0.8
オレンジ 0.9
コカコーラ 0.4
同 1.65
リンゴジュース 1.6
ソーセージと
パン 1.1
ソフトアイス 0.5
Total 9.33
不明 0.9
10.23
内食事 5.95
殘 166.02DM
使用した金 30.78DM

ミュンヘンのカラクリ時計 |
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1964年8月1日 (土)
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例によって、朝から午前中一杯市内をぶらついた。
大分、心にゆとりが出てきた。
正直言って、昨日Mさんご夫妻とレストランで会食したお陰で、今日の
夕食は、独りでレストランに入りHungarisch Suppe mit Kartofeln
Knaedel(ジャガイモいりハンガリースープ)を食べられた。
昨日、Mさんと会食する迄は、いつも食事は駅の近くに行って
ソーセージとパン、ジュースやコカコーラだけしか食べられなかった。
着いて2日間はやたらと喉が渇いた。あちこち歩いたせいもある。
ホテルの水は味がなくまずく仕方ないのでコーラやジュースばかり。
旅の疲れと毎日のぶらつき(10kmは歩く)、不眠とソーセージとパン
だけの為にすこし痩せたようだ。明日からは栄養の方も回復し、元気が出るだろう。
昨日までは、大分暑かったが、今日は涼しかった。
買物をする際、これは、いくらですかと訊くと先方がベラベラと金額を言うので、
それがハッキリわからず、いつもあてずっぽでいくらか多めの貨幣を出すため、
おつりの小銭がポケットに一杯になった。
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1964年8月2日 (日)
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今日は、朝から雨が降り、肌寒い感じだった。
午前中、ドイツ博物館に行ってきた。昼からは、ホテルで昼寝してた。
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1964年8月3日 (月)
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昨日あたりから歩いているとふらふらする。サンハン器官に何か異常?
日本と較べて大分日が長いようだ。8時を過ぎてもまだ明るい。
大分、Munchenの町の中に慣れてきて飽きてきた。
早く友達を作らないとさびしい。
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1964年8月4日 (火)
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今日はGrafingに来た。(Goetheのドイツ語会話学校の一つがある小さな町)
駅から学校までタクシーにイタリア人と乗合。
学校には、日本人が他に5人(うち2人女性)来てる。
下宿先が決まり、僕の下宿している部屋の窓から見える景色は、丁度
長野県にでも来た感じ。
道が舗装され家は皆ブロックで赤い屋根になっている。
畑が、森が、花が見える。でも山は見えません。空気は新鮮。
食事は朝は学校の食堂で、例の小さなパン(ゼンメル)と紅茶、バター
ジャム、マーマレードだけ。
昼と夜は学校から少し離れた(俺の下宿に近い)学校との契約レストラン
で肉か魚にサラダ、スープ、パンなどです。量はあるがあまり旨くない。
そろそろ日本食が食いたい。まことやの鰻、旭寿司、そして家のオジヤや
お茶ずけ。
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1964年8月5日 (水)
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クラス分け、僕はZweite Klassになった。
でも今日だけKlass 2(1?) といっしょにやったのでつまらない。
ここに来てから水がまずくなく飲めるので助かる。風呂は週に1回しか入れない。
毎週月曜に洗濯屋が汚れ物をとりにきてくれるので、下宿では洗濯しては
いけないらしい。
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1964年8月6日 (木)
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昨日のクラスの半分になって、Schnell Klasseになった。
が午前中相変わらず1の本の初めをやっていたので、校長(のところに)
に行って談判した結果、他のクラスに変る試験をしてくれたが、見事に失敗。
午後から同じSchnell Klassでやった。でも午後からは、進み方が早く
疑問文、命令文までいったので、この調子なら満足である。
校長の話では、僕のクラスは、1ケ月で1冊終り、後1ケ月で2冊目の本の
半分やるそうな。それなら文句ないよ!
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今日1日で友達2人できた。
Herr Bell Wright aus Kanada Musiker 1年滞在
(カナダからのオルガン奏者)
Herr Azu aus Nigeria Landwirtscafter &Ackerbaustaat 5年滞在予定
(ナイジェリアから農業従事者)
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1964年8月7日 (金)
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今日も8:45-12:15まで授業、Stephanの代わりにGunther先生
が来た。昼、校長Filipから、もし望むならKlasse3にも掛け持ちで
(月、水、金の午後4:30-6:00)出席しても良いと言われ。喜んで承諾した。
ホテルでシャワーを浴びて以来初めてバスに入った。1週間に1度とのこと。
1.5DM位取られるのじゃないかな。それにこっそり洗濯もしてやった。
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1964年8月8日 (土)
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授業は午前中のみ、夕食の際アメリカ人と台湾人と知り合う。
一緒に近くの映画館で映画を見た。
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1964年8月9日 (日)
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村上、小林、森永、太田氏とWasserburgへ遊びに行ってきた。
曇っていて、時々小雨が降ったが景色はわりに良かった。
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1964年8月12日 (水)
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Klasse3の授業が終ってから(6時過ぎ)シリアのBackrei
とパン、缶詰、トマト、卵、チーズ、など買ってバックリの家で夕食した。
2時間近くいろいろ話した。
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1964年8月15日 (土)
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今日は昼間Munchen に車を借りに行こうと思って駅まで行ったが、
汽車の時間が1時間程余裕があったので、バックリの家に遊びに行き、そこで
朝飯を食っているうち時間が過ぎて仕方なく彼とエーベルスブルクまで
歩いていった。そしてお祭りを見て帰ってきた。
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1964年8月16日 (日)
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今日は日本人の連中とバス旅行した。6時半Marktplatzを
出発、Konigsee、Berchtesgarden,Bad
Reichenhall等を見て、夕方8時過ぎに帰ってきた。

Berchtesgaden |
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1964年8月19日 (水)
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今日は遠足、BadreichenhallとBerchtesgaden
に2台のバスに分乗していった。僕らのバスは、フランス語とスペイン語
系の連中がはばをきかせて、彼らは始終笑いっぱなしだった。
Badreichenhallでは、ケーブルカーで1200m高さ70m
のPredigtstuhlに行った。
時折雨が降る悪い天気で、あまり調子は良くなかった。
Konigseeでは、松浦氏と僕とAzuの3人でボートに乗った。
イタリアの連中も数人来ていた。
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1964年8月20日 (木)
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午前中は、昨日の遠足についていろいろと語り合った。
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1964年8月21日 (金)
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風邪気味で喉が痛い。朝はからりと晴れていたが、夕方から雨、いやになる。
写真が出来てきた。
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1964年8月24日 (月)
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写真を棒焼きに出した。
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1964年8月25日 (火)
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日本人5人でヤロッシュ神父のところに遊びに行き、ごちそうしてもらい、
お土産にと10DMくれた。非常にうれしかった。.
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1964年8月29日 (土)
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午後から独りでミュンヘンから100km程離れた小さな都市Fussenに
遊びに行った。ただ一冊の本を頼りに、その本ではユースホステルの書いて
ある。でも駅からそこまでどのくらいの距離があるのか、また予約のとって
ないのでベッドが空いてるかもわからずにでかけた。最悪の場合はホテルに
泊まるつもりで十分のお金は持っていった。幸い駅から徒歩10分、屋内の
ベッドは満杯だったが、庭に大きなテントが3つあり、各20人分のベッドが
ある。その1つに寝ることが出来た。宿泊料はたった150円ほど。
紀子への絵ハガキから (字が小さくきたないので)
元気かい、そろそろ学校が始まるのでその準備に忙しいと思う。
こちらの学校の方は順調にいっている。ただ食事が毎日殆ど同じものなのと
肉の煮たのはまだしもサラダ菜とじゃがいものつぶしたのを酢でまぶしたのと、
じゃがいもの焼いたので閉口している。ところで今日土曜の午後ミュンヘン
から汽車で4時間かかるフュッセンという所へ一人で来た。
ここにユースホステルがありこの近くにノイシュバインシュタインというきれいな
城がある。幸いユースホステルは予約せず、部屋の中のベッドは満員だったが
外の大きなテントのベッドが空いていて今晩はそこに泊まることが決まった。
明日、城を見てGrafingに帰る。茂
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1964年8月30日 (日)
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ユースホステルでフランスとイギリスの学生に会い、一緒に城(NeuSchwan
Schtein) を見に行った。夜帰る途中にMunchenのHB(中央駅)でウゾルフ
に会い、また下宿のおばさん一家にもあってみんなで一緒に帰ってきた。
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1964年9月1日 (火)
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午後、太田氏と牧師さんのところに、そして娘さんの”とこやさん”で
頭を刈ってもらった。その際、自動車の件話した。OK
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1964年9月5日 (土)
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9時に牧師さんと会い、いろいろな手続きを済ませ、車をもらった。
66.7DM保険(税金)
465DM車輌代 (約 5万円でオンボロ車購入,その後修理が10万円以上かかってしまった。)
夜、バックリ、アズ、ラビエとMunchenのシュバービングへ 車で。
(初めての左ハンドル、左側通行で昼間少し練習しただけで、その夜ミュンヘンの
繁華街へ友達乗せて運転して行った度胸、若かったんでできたんだね)
ずい分歩きまわって疲れた。俺の取った態度はあまりよくなかった。
帰り道に迷った。帰ったら1時。

5万円で入手した
車の写真
小さくてわからない
写真は、他に殆ど
撮ってなかった。 |

ドイツフォード
タウナス17M
イタリア旅行時
の写真 |
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1964年9月6日 (日)
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牧師さんを空港に見送りに、村上、太田氏と。
後、Rosenheimのお祭りに行った。
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1964年9月13日 (日)
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バックリ、ライト、バリオス、アコスタ、ハジラフティスと6人で
ミュンヘンから180kmのPassauに車で行った。
ドナウ河とイン河とイルツ河の3つが交わっているところ。
ドナウ河は褐色に濁っているが、イン河は丁度粘土を溶かしたように
白っぽくなっていて両河が交わるところではそれがはっきりとわかる。
この3つの河をハジラフと遊覧船で廻った。45分の船旅でした。
帰りに途中でパンクした。
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1964年9月16日 (水)
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GoetheでAusflug(遠足)KochenWeichen
SeeとBenrdigtbeuern Klosterへ。
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1964年9月19日 (土)
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夕食後、森永、バリオス、アズ、アコスタ、バクリとMunchen
Oktober Fest会場へ、
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1964年9月20日 (日)
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朝9時、Von Grafing Nach Munchen 森永、
バリオス、アコスタ、バクリとOktober Fest Zugを
見た。100のダシ。雨が降ったり、やんだりの天気。
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1964年9月22日 (火)
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一番の親友バクリに陰口をされたので、頭にきた。
父に送った絵ハガキから
朝夕の冷え込みが日増しにひどくなっていく感じ。5℃前後、日中でも15℃
位、秋がなくて一足とびに冬になっていくようだ。この絵葉書が着く頃は、
朝夕氷点下になるかもしれない。
ゲーテも残り1週間あっという間に2ケ月が過ぎてしまった。
一昨日の日曜は友達とミュンヘンのオクトーバフェストを見てきた。
100の山車が市内の通りをねり歩く。生憎小雨が降ったり止んだりの天気
で、それでも多くの見物人がきていた。9月17日付けの葉書を今日もらった。
みんな元気らしいね、こちらでは、オリンピックのオの字も聞かれない。
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1964年9月28日 (月)
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午前中ドイツのスライドを見た。午後3時半から懇談会と成績書の授与
があった。非常に良い成績だった。(帰国前にこれを紛失してしまった。
とても残念だった。!)
ゲーテのドイツ語会話学校は今日で無事終了となった。
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1964年9月29日 (火)
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午前10時半にバクリ、ハジラフ、ラビアとMunchenに向かった。
その晩、ユースホステルにバクリとともに泊まった。
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1964年9月30日 (水)
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晩、M氏の家にお邪魔して日本食を味わった。ユースホステル泊まり。
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1964年10月1日 (木)
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ユースホステルで知り合ったドイツの青年と2人でStuutgartに
向った。途中、アウトバーンで(120km走ったところ)車が故障し、
エンジンがかからなくなった。ドイツ青年が1台の車を止めてくれて
一緒に調べたが判らず、ドイツ青年はその車でStuutgartへ。
たった一人になった。と直ぐ黄色のADACの車が来て、直してくれた。
(アウトバーンを30分間隔で走っていて故障車を見つけて直す車)
無事Stuttgartに着き、ユースホステルに一泊 1.6DM
夕食にライスのスープとニンジンとマカロニとコンビーフスープ
ライスのスープがおじやの様でなかなかいけた。
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1964年10月2日 (金)
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Nさんに教わった下宿斡旋屋、Schochに行き5,6軒アドレスをもらって
4軒たずねたが3軒はすでに決まっており、1件は炊事が出来ないのでだめ。
決まらなかった。大学の事務所は引越しのため月曜からとのこと。
これからは下宿斡旋屋と大学の事務課とで下宿を探し、最悪の場合は
新聞広告も出す積り、悪くすると10日位かかるかも知れない。
気長に探す積り。
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1964年10月3日 (土)
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11時にSchochに行ったが、気に入ったアドレスがもらえず前の
映画館で黒いチューリップを見た。後、ネッカー川のほとりのFolks
Festを見た。丁度MunchenのOktober Festの
会場のTeresien Wiese の規模と同じ位盛大なものだった。
そして午後4時半過ぎチューリッヒに行ってやろうと思いつき独り車で
国境を越えチューリッヒのHaupt Bahnhof(中央駅)の近く
に着いたが10時15分前、今からユースホステルに行っても間に合わな
と思って近くのAsconaというホテルに泊まった。17.85DMだった。
(チューリッヒのユースホステルは改造中で営業してなかった)
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1964年10月4日 (日)
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午前中、チューリッヒの町を散歩した。
午後1時再び国境を超えてドイツのConstanzのユースホステルに向った。
2時にSchefhausenに着き、30分休んで一路Constanzへ
4時にユースホステルに着いた。
Constanz-Zurich往復 105km。
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1964年10月5日 (月)
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朝8時半ドイツConstanzユースホステル前出発、Staatから車ごと
船で対岸のMeerslorgへUberlingen,Signalingen,Hechingen,を通って
Stuttgartへ
Konstanz−Stuttgart 176km
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午後1時過ぎ、Schochへ行きアドレスを二つもらった。
最初のは、引っ越すためだめ。後の方はバアさんが出てきた。
すでに、殆ど決まっているがその人を断ってやるから夕方また来いと
言った。飛び上がって喜んで、上等の昼食を済ませ万年筆などを買って、
夕方出かけて行ったがしかし、前の人がいやだというので諦めてくれとの
こと。がっかりした。涙が・・・。
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1964年10月7日 (水)
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アエログラムから
さぞ心配していることでしょう。
やっと見つけた。思ったよりひどい下宿難だ。ドイツ人でさえ部屋を借りる
のに血眼になっているところで僕の選んだ部屋は、4階建のアパートに
なっていて8家族程住んでいる。各戸は4,5部屋で、その1部屋を借りる
ことにしたが、10月15日までイラクの学生が借りているので、それまで
ユースホステルで待たねばならない。
若夫婦と1歳の男の子が一人いる。割と感じがいい部屋だ。
1ケ月130DM但し、台所の使用(特にガスレンジ等は)禁止されている。
自分の部屋で電気ヒーターを自分で買い使用するなら一向にかまわないと。
それでヒーターを買い込むことにした。台所で野菜や米をとぐことは勿論
かまわない。一週間に一度Bad(風呂)に入れる。(家賃に含まれる)
洗濯は毎日自由にしてよいと。学校からもそれほど遠くない。
兎に角最初の日、Nさんから教わった下宿斡旋屋(Schoch)に行き、
10DM払って5つアドレスをもらい、3つは探し当てた時既に先約があり、
1つは、あまり感じがよくなかったので断った。
翌日も2つアドレスをもらっていったが気に入らなかった。そして今日
大学のAuslandamtにも行き、探したがダメ、結局Schochでもらったアドレス
の1つを今日決めた。Auslandamtに行き、僕の条件;洗濯が出来、風呂に
入れ、台所が自由に使えて学校に近くて等と言ったら、それなら250DM
以上しますよと言われた。
何しろ多くの人が部屋を探しているのがよくわかった。
しかも高い。
学校の方の登録は、10月15日から11月2日の間にすればよい。
兎に角住所が定まったので市役所への届けもしなければならないし、
いろいろと忙しい。体の調子は上々。
ではまた 茂
Shigeru Miki
bei Familie Frost
Stuttgart Moeringerstr.16
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1964年10月19日 (月)
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母に出したアエログラムから
皆さん お元気ですか やっと3日前からこの下宿に入っています。
翌日、早速Kochplatteという電熱器のようなものを買い込んで飯を炊いた。
その前に14日にMさんの家から小包を3コ(No.1,2,4),No3はまだ来てなかった。
但しこのNO.3はおふくろさんが手紙で書いてよこした内容はNo.1と3が逆だった。
Mさんの話では、4日に1個、5日に2個届いたので、翌日にまた来ると
思って待ったが来なかったとのこと。Mさんのところの荷物でも遅いのは、
3ケ月かかっているのでもう少し待ってみるようにとの話。
待つことにした。しかもそのNo3は一番不必要なものばかり入っているやつ。
(ナイトガウン、下着、セータ、お米、明星ラーメン、おわん、しゃもじ、・・・)
届いた米で飯を炊いたところ米が多すぎ、水が少なすぎて”めっこめし”が
できあがった。しかも3人分ぐらい作ってしまったので翌朝おかゆに、晩
おじやにして平らげた。うまくなかった。しゃけの缶詰は割りにうまかった。
このStuttgartにも日本人がいる。ドイツに来る時に一緒の飛行機に乗ってた
音楽家、酒井氏、彼は今Stuttgart音楽大学でピアノを勉強中、その大学に
日本女性が2人、いつだったか、酒井氏とその1女性の下宿に行き、そこの
オバサン等とみんなでおにぎりを食べたことがある。
これから行く僕の学校にもこの11月からやはり会社を休職して勉強に来た
白川氏。それにMunchenのユースホステルにいた黒川氏、彼は千葉医大を
今年卒業してエジプトのアレキサンダー大学の夏季講座で2ケ月勉強しその
後、ヨーロッパ旅行に来ている人。ここのユースホステルに泊まったいる。
14日にユースホステルで60人の日本大学学生ヨーロッパ視察団と一緒に
なった。オリンピックの期間航空運賃が非常に安く、それを利用して欧州
各国を廻っているとのこと。
安全カミソリと新聞と色紙受け取ったよ。とっくに。
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1964年10月29日 (木)
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母宛のアエログラムから
皆さん お元気ですか
このところ毎日鉛色の空で今にも雨が降りそうな天気ばかり続いています。
こんな天気が来年3月まで続くそうで、これからは、寒さも加わってくるだろうし、
嫌になります。でもここは、Munchenより遥かに暖かいようです。
学校の方は、今手続きの最中でまだ何の課目をとるかなど細かいことは、
わかりません。兎に角入学出来た事は確かだし、心配いりません。
Mさんから、例の未到着だった4ケ目の荷物が10月24日にやっと
着いたと知らせがありました。さしあたってその荷物は必要とせず、そのうち
暇をみて、取りに行こうと思っています。
それから航空便で送ってきたカミソリの刃とインスタントラーメン、海苔が
1週間ほど前に着きました。でもこの荷物、がっちり封をしてあったらしく
税関で開けることが出来ず、僕に税関まで来るようにとのハガキがあり、
彼の目前でそれを開くはめになった。
お金は払わないで済んだが面倒っくさいよ。
それにインスタントラーメンはもう要らないよ。まずくてしようがない。
別に急がないが味付け海苔、日本手拭、それに銀座 San−Sei
Tel 572−4724の店で売ってる米食いねずみ(おみやげに良いと思う)
缶詰は五目メシなど固くてそのままだと食えないからダメ。
やはりシャケ、コンビーフ(こちらのはまずい)。さんまの蒲焼はまずいから
要らない。
まだ金の心配はないが、そのうちここのDresdner Bankにコント(口座)を
開いて送金できるようにします。勿論3ケ月毎のライセンス切替はして
くれていると思いますが。
ところでこの町には多くの日本人がいる。ここに工科大学と音楽大学が
あり、それにマックスプランクという金属の会社があるが知っているだけで
音大にに35人、僕の大学に5人、マックスプランクに5人位いると思う。
大学出て1年、今年東京計器を休職して僕と同じ科に入る白川氏。
来る時同じ便に乗っていた音大在学中の酒井氏。
千葉医大を今年卒業し、夏季2ケ月エジプトのアレキサンダー大学で
考古学を学び、ここに来ている黒川氏など。
下宿の人は親切で先日は洗濯もしてくれた。
暮れには、Astaという学生に援助金を出している団体が主催するBonn-Berlin
への旅行に参加使用かなとも思っている。
また学生証をもらったらそれを利用してここのKonzertにも行ってみようと思う。
体の調子は悪くないし、でも食事は、どこへ行ってもまずい。
先日、友達と支那料理店で食べた食事はとてもうまかった。
もやしと肉その他を混ぜ合わせて炒めたもの。
それを食ってからドイツの食事が一段とまずくなった。
自炊して米を炊いたが初めのときはめっこ飯、つぎはおかゆで失敗。
後片付けも面倒だし、いやになった。
結局、学校のメンザという学生食堂でまずい食事をとることになるだろう。
ではまた 茂
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1964年11月11日 (水)
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母への絵葉書から
昨日、一昨日と久しぶりに青空が見えたが今日はまた鉛色の嫌な空
皆様 お元気ですか
私は相変わらずです。ところでそちらから送金し易いように下記の銀行に
コント(口座)を開きました。
Stuttgart Dresdnerbank
コント番号 xxxxx
送ってもらいたいもの
航空便 伊・和(イタリア語を日本語に)
露・和(ロシア語・・)
仏和辞典 以上6000語くらいのもの
もう新聞は送らないでください。その代わり船便で週刊誌を頼む。茂
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1964年11月19日 (木)
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父へのアエログラムから
みんな元気ですか
ここStuttgartはドイツの他の都市に比べ本当に暖かく、多分東京と同じ位
の気候かと思われます。でも青空が見れるのは、今のところ一週間に一回
位ですが、これからは、もっと嫌な天気になるでしょう。
雨も時々降りますが、ドシャブリということはめったになく、シトシトと降り、
また一日中降ることもめったにないです。
学校の授業の方は、外国人の為のドイツ語会話の授業が週に2回3時間。
専門科目は、
その前に日本の大学を卒業した人は、ドイツでは5学期(Feunfte Semester)
に入れられます。白川氏と僕とはこの5番目のSemesterに入ってます。
Nachrichten Technikの講義とFernmerdeanlagenの講義をとりました。
専門科目は午前中にあり、ドイツ語は夜なので昼間の2時間半は白川氏と
大学の食堂(メンザ)で食器(ナイフ、フォーク、スプーン)拭きをしています。
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とにかく1日6マルク(540円)と昼飯はタダで週に5回で30DM稼いでいます。
別にお金が足りなくなったわけではないのです。
辞書着いた。ありがとう。
ところで9月17日出したと言う船便2ケが着いたという知らせをM氏から
もらい11月28日に前の1ケと合わせて取りに行こうと考えています。
S氏にハガキ出したところ困ったことがあればいつでも会社に連絡する
ようにと、それにオフクロ、オヤジさんによろしくとのこと。
Mさんからは別に大したこともしてないので送り物などしてくれないように
とのこと。
高校で同級のT氏からの手紙も着いた。まだ返事を出していないので、そのうち。
靴下と白いハンカチ、Yシャツ(ナイロン)、とカレーライスの素、チャーハンの
素、ポマドール、髪の素など船便で送ってくれると助かるんだが。
航空便の必要は全然なし。
12月6日から14日までASTAのベルリンへのバス旅行に他の日本人と
参加することにした。
ベルリンはもう大分寒いとのことで準備は十分していくつもり。
ドイツも日本と同じく、冬休み、春の休み、夏休みは良い。
12月23日〜1月6日(冬休み)、2月28日〜4月半ば(春)、8,8,10月
(夏休み)というわけで授業の時間は実に短い。
休みのことしか書いてないが勿論授業にはまじめに出ている積り。
ところで、家の建て増しの案知った。
いつ建つか知らないけどタイルとモルタル忘れないように。
紀子はどうしてる?
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1964年12月6日 (日)
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朝、Stuttgartから一行27人(17ケ国から)を乗せたバスはBonnに向け出発。
Bonnのホテル コンティネンタルに2泊した。この写真のように見かけは
いいけど2流ホテルだ。
ドイツの国会議事堂、ベートーベンの生家等を見学した。
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1964年12月9日 (水)
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ベルリン
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1964年12月26日 (土)
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皆様 お元気のことと思います。
今日は12月26日 昨朝から降り出した雪が5cm程積もってまだ降り続いている。
24日の夜と25日丸1日、ここのFrost家の人々が招待してくれた。
25日は親戚に人達も集まり一緒にレコード聴いたり、子供のおもちゃで遊んだり、
スライド見たり、ダンスしたりで夜遅くまで楽しく過した。
そちらから送ってくれたクリスマスプレゼント用品が23日にタイミングよく届き、例の
手紙入りの品を両親に、子供には羽子板のハガキ、紙の人形を贈った。
親戚の人達に見せて非常に喜んでくれた。
僕には、赤と黒の縞の大きなタオルとオーデコロン4711をくれた。
もう少し続けよう。
24日のクリスマスイブは親戚が2人来ただけで本当に静かだった。
親がプレゼントした電動機関車でみんなして遊んだ。
そして、クリスマスソングのレコードをかけ10時頃には終って寝た。
食事は、蒸かしたジャガイモと鶏の丸焼き、奥さん手づくりのアップルケーキ
(煮たリンゴが入ってる)
25日は朝パン、ソーセージ、コーヒー。昼にわとり、ジャガイモ、・・
夜、菓子、コーヒー 夜10時過ぎパン、魚の缶詰(日本産)、ソーセージ。
正直のところ、あまり食べないと悪いと思って美味くないものを無理して
食べた感じ。一番美味かったのは、なんと日本産の魚の缶詰。
面白いことに他の連中もこれをよく食べ、最初に空になった。
それからプレゼントは夫婦同士、親戚同士が幾種類もの品物を交換しあって
いた。
24、25日の夜は、家の前の通りも車が殆ど通らず普段より静かだった。
カラー写真を何枚か撮ってくれた。出来上がったらFrostさんの手紙を
つけて送りたいとのことです。
24日にも航空便(ジャンパー、缶詰、海苔、靴下など)が1個届いた。
今日は昼から他の家によばれている。 では又
26日 昼11時 茂
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1965年1月6日 (水)
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母あての大変失礼なアエログラム(今読み直し大いに反省)
(先月)19日に竹内が来たらすぐ手紙を出すと言いながら、三週間も出さないで
何してる。生きてるのか死んでるのか?
正月はどこも出ずに下宿に閉じこもっていた。学校は明日7日から始まり2月
27日迄。3、4月は春休み。
このところ昼間でも+2〜+3℃、夜はー5℃位かな。積もらないけど雪が
時々降る。そうかと思うと青空も週に1回くらいは見える。
写真4本航空便で送ったがもう着いたことと思う。先に送ったものと共に
大切に保存して頂きたい。絶対に無くさないように。またあまり汚い手で
いじくらないように。
次に船便で送ってもらいたい物を書きあげる。
キャラバンシューズ(登山靴)、これはまだ新しいのが下駄箱に入っているはず。
又,できればナイロンかテトロンのアイロン不用の青いワイシャツ2,3枚、
大学目薬、メンタム、フランス語日常会話の本、ネクタイ。
それからもうこれ以上送る必要のないもの;
即席ラーメン、魚のみりん干し、米、洗濯粉、味の素、その他食料
正月に僕のところに来た手紙(年賀状)もしあったら名前だけ知らせて欲しい。
加藤さん(恭子)がクリスマスカードくれたのでよろしく言っておいてください。
紀子にも手紙くれるように言って欲しい。最初に一通くれただけや。
ここ迄 茂
1月6日
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1965年1月14日 (木)
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母あてのアエログラム
皆さんお元気のことと思います
このところ晴天の日が続いています。兎に角思ったより暖かいし、また
晴れて青空の見える日も多い。
7日に2日付けの手紙、9日に12月31日付けの手紙を受け取りました。
又週刊誌4冊も受領。正月もどこにも行かず、Frost家の家族と一緒に
過しました。例の写真はまだ出来上がらないそうであと10日ほどかかる
とのこと。出来上がり次第Frost家の手紙を添えて送りたいと思ってます。
それから、今まで来た荷物で異常のあったものはありません。
食料品も悪くなってはいなかったし、多少中身のこぼれていたもの(センベ)
はあったが、味噌はインスタントだけで十分間に合うので部屋において
おいても臭いし、捨てちゃった。
先日、あさりの缶詰をFrost氏に勧めたらとてもおいしいとのこと。
海苔はだめだった。
クリスマスに魚の缶詰が一番美味かったというのは、シャケじゃなくて、
いわしと野菜(きゅうり、その他)の混ざった、日本では食べたことのない缶詰。
Frost氏の職業は、Metzgerei(肉屋)に勤めている。日本では、蛇の血を
飲む人もいるという話をしたら、自分は、牛等を殺した際、コップにとって
飲むことが有ると言ってた。
兎に角、クリスマス以来、急にFrost家と親密になりこの頃は、毎晩居間で
一緒にテレビを見てる。彼らは朝早いので普段は10時過ぎには消して
しまうけど。
先日、机の上でガラスの上張りなので新聞紙を敷いてアイロンかけしたら
熱でひびが入ってしまい(あたりまえだった)謝ったけど別に弁償しろとも
怒りもしなかった。
多分、クリスマスの贈り物が効いているらしい。
今まで何度か送って欲しい物を書いたが、必ず送ってもらいたい。
さらに追加で送ってもらいたいもの;
カレーライスのもと、カミノモト、あさりの缶詰、タンチョーチック、
キャラバンシューズ(これはくりかえしだが絶対)
今まで送ったフィルムと手紙は絶対無くさず僕の机の中にしまっておいて
欲しい。それからもうフィルムを送ってくれる必要はありませんから。
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1965年1月21日 (木)
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昨日(20日) 紀子の手紙と2通、それに週間女性、毎日アサヒグラフ、
の本受け取った。皆元気な様子でなによりです。
下宿で撮ったカラー写真のネガが先日出来上がったがこれからそれを
焼付けしなければならないにであと1週間はかかるそうだ。
昨日から又雪がちらつき今朝は2−3cm積もった。今は明るくなって薄日が
射している。竹内が正月も来られなかったのは残念でしたね。
ところで、先日の手紙の花の件、訊ねてみました。シュネーグロッケンを
除いて一番先に咲く花はクロッカスだそうです。
セーターとネクタイ1本送ってくれてるそうだけど、ダンケ(ありがとう)
でもそれほど必要じゃない。すでに2本あるから。また背広(黒田から
もらった)は要らない。間に合ってる。ワイシャツは何枚あってもかまわない
から送って欲しい。靴下春から夏用の薄手もあればいいが。冬用は不用。
白い綿の半袖及び長袖の下着シャツ春夏用が欲しい。
手袋はまにあってる。キャラバンシューズ早く送って。
兎に角着物は冬用lは有り余るが夏用があまりないので送るなら夏用を。
2月一杯は学校もあることだしここStuttgartに静かにlしているつもりだが、
3、4月の休みはどこか暖かい国の方へ白川氏と旅行する計画をたてて
います。ここは近くに湖があるわけじゃなし、景色だってさほどよくないし、
最低なところだ。
それにシュバービッシュ(この地方の方言)で話されるとサッパリ判らない。
ハノーバーあたりの標準語を話すドイツ人でさえもこの地方に来ると
判らないという話だ。
メンザでのアルバイトも順調だし、体の調子もいいし、別にとりたてて
いくこともないから心配いりません。
茂
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1965年1月26日 (火)
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またまた大変無礼な手紙(すまん)
誰が手袋を2回なんか送れと言った! 誰がフランス語の辞書を2冊も
送れと言った! こちらで書いた通りにしないならもうなんにも送ってくれなく
て結構だ。アンタはそちらから送って来る品物を記録してあるのか一体。
デタラメに送るのは、やめろ 金をタダ捨てる様な物だぞ!頭に来た。
古い背広、ズボンは一切要らない。本当に送らないでくれ。
1月27日夜現在航空便で(セーター、カレンダーその他)と手袋、マフラー
その他が来た、
まだ銀行からは、何も言ってこない。これは多分2−3日中にくると思う。
下着も一切要らない。食い物ももう結構。
これから送ってくれるのは前の3通に書いた品物だけで結構。あんまり
いらいらさせるなよ。 それじゃなくてもメシがまずいんだから。
以上
追伸
別に体の異常もないし、元気にやっている。
3月には白川氏他と旅行する予定
茂
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1965年2月6日 (土)
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母への失礼な手紙
金がついたという報告は、先に送った写真の封筒の表に書いたものを
読んでくれたと思います。
こちらの銀行では、ドルではなくマルクでしかくれない。3973.5DMです。
2月3日にはNo.8の荷物が1個だけ着いた。ワイシャツ2枚、カミノモト、
その他が入っているやつ。カミノモトは小ビンの方が割れてだめになってた。
他は、今までに来たものは、すべてOK.
目薬は着いたって言ったろ。よく読んでくれ! 洗濯セッケン(モノゲン)も
要らない。まだ3箱ある。2年間間の衣料品はもう十分あるのでこれっきり
一切要らない。着るものはこっちにだって売ってる。
キャラバンシューズは3月の旅行にはこうと思ったんじゃないから心配無用。
ところで先日、下宿の主人、アパートの管理人と3人で近くの室内プール
(たて50m横12m水温23℃室温28℃お湯の出るシャワー室があり、泳ぐ
前は、皆そこでセッケンで洗ってから泳ぐ。風呂と泳ぎの兼用)
1時間ほど泳いだ。外は雪がちらついてたが、楽しかった。
旅行の日程はまだたっていない。4月になるかもしれない。
行き先は、行きはイタリアを通ってスペイン出来ればポルトガルまで、
帰りはフランスを通って。逆になるかもしれない。
ユースホステルを利用して日本人3,4人で出かけるつもり。
何の心配もいらないよ。
7月には、大学時代の友達の大熊がこっちにくることになった。
彼はこの1月の私費留学試験が受かって今大学入学手続きしている。
その手続きは僕が手伝ってやっているけど。
僕は別に変った事は全然ない。時々お袋から説教の手紙画来ること以外はね。
でも楽しい。
金は十分ある。新たに送ってくれたのを除いても。
バイトの方も順調に続けてます。バイトしてるからって涙なんかこぼすなよ。
みっともないから。こちらではチョット バイトしただけで4,5万円は稼げる。
日本人でドイツに旅行に来て、ここの米軍病院の食堂で1日8時間皿洗い
して宿は、病院に1室借り、保険、部屋代、食費、一切差し引いて月400マルク
(36000円)以上稼いでいる。
フィルムはまだ白黒が13本、カラー7本残っている。
僕は相変わらず元気だけど、皆からだに気をつけてくれよ。
突然の帰還命令は出さないでほしいね。
オフクロさんは車に気をつけてくれよ。事故おこすなよ。
最後にもう衣料品は一切要らない。
送るものは、僕がこれまでに手紙で書いたものだけで結構です。念のため。
ではまた 茂
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1965年2月16日 (火)
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前略
No.9の荷物先日着きました。洗濯粉の袋が破れて他の物が粉だらけに
なっていた。まだ最初に持ってきた粉が残っているというのに、他に6箱もある。
俺はドイツに洗濯しに来たんじゃないよ。
今は、季節的に一番寒い時期で雪はさほど積もらないが、風のあるときは
顔が冷たくなる。昼間0〜−5℃位かな。 −10℃以下にはならない。
まだ旅行の日程は定まらない。学校は2月一杯で終りで、メンザの仕事も
なくなるので白川さんと2人で3月はどこか他の工場でバイトでもするかと
計画してる。4月に旅行しようと思ってる。とにかく白川氏の方が財政難らしく
彼に歩調を合わせているので金は、残るようだ。
白川氏の住所を記します。
略
特別変ったこともなく、体の調子もいい。
朝日ジャーナルと中央公論を毎月船便で送って欲しい。
他のものは今のところ一切要らない。
カラーの写真もとどいた。おやじさんの写したものは露出がくるってるね。
こちらからの写真はスライド用のポジから焼付けをしたものです。
紀子綺麗に写ってる。ロシア語のタイプライターどうなった。
今年の予定は
3月バイト、4月はスペイン行き、5,6,7学校
8月北ヨーロッパ(ノルウエー、スエーデン)
9,10月フランスのリヨンで夏季フランス語会話学校
11〜2学校。
ところで8,9,10と家を空けるのでその間部屋代を払うのがバカらしいので
引っ越すかもしれない。
今の家は130DMだけど、Auslanderheimの白川氏がいるところは、2人部屋で
85DMで学校に近く、大熊も多分そこに住むようになるだろうし、僕もそこに
移る可能性が強い。白川氏は7月に他へ移るけど・・・。まだ先のことだから
はっきりしない。 では又 茂
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1965年3月2日 (火)
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紀子と親父さんが風邪気味で寝てるってことだけど、元気になりましたか。
昨晩から又雪が降り出した.、一向に春の気配は感じられない。
3月から学校が休みになりました。昨日は早速日本人3人でマインツの
カーニバルを見に行ってきました。ドイツで一番有名なものです。
汽車で2時間半、ライン河がマイン河とに分流するところにある小さな都市
です。この日は5割引きの特別列車が1便出た。
相当混雑すると思ったけどそれほどでもなく、全員が座れた。
お祭り用の臨時列車なので2時間半行進曲風の流行歌やツイストを
鳴らしとおしだった。9時半にマインツに着き、昼からの仮装行列を待った。
外はまだ寒く立っていても足がガタガタしてきた。仮装行列はミュンヘンのオクトーバフェストの時と
同様で一度見てしまうとさほど面白くない。でも色彩的には、綺麗でカラー写真をとるには良い。
ミュンヘンではカラーで取り損なったので今回は行列だけで1本写してしまった。
でも露出計が壊れて感で撮ったからうまく写ったかどうか。
先に送ったカラーフィルムは一枚一枚枠をつけてカラースライドとして見てください。
焼付けをすると高くなるしハーフサイズなのでスライドで見ても小さすぎるなら
これから白黒1本やりで写すけど。
ところで先月親父さんの手紙にこの2年間を6000ドルでやって欲しいとあり、
これを前提に話を進めていきます。
この6000ドルは3年間(2年ではなく)分の生活費一切と帰りの船賃
(帰りは船で帰る)に十分足ります。
そこでオフクロさんが家の車を買い換える気があるなら(親父さんが所長になる、
ならないに拘らず)こちらで一台新車を買い1年使用すると無税で持ち帰れます。
例えば、中古でも値段の下がり難いフォルクスワーゲンはこちらで40万円ですが、
日本では80万円以上する。車の輸送賃が10万円ですがこれを入れても特です。
もっとも日本に帰っても2年間は他人に譲渡することは禁止されているそうですが。
ここでドイツの学校制度について書いてみます。
ドイツの大学は2学期制です。4学期の終りに、即ち2学年の終りにVordiplom
試験があり日本の大学を卒業した者はこのVordiplom試験が受かった者、即ち
大学3年にしか登録が許されません。そして6学期の終りから8学期の終りに
Hauptdiplom試験があり、受かるとDiplom Arbeit(卒論のようなもの)をして
最後に口頭試験があり、それに受かってはじめてDiplom Engineerの資格が得られる。
その後、2年間のドクターコースがある。
ドクターを取る人は多くないが、このDiplomの資格だけはドイツの学生は勿論、
日本人以外の例えばインド、アフリカ諸国の人は皆とるみたいです。
なぜなら、ドイツで就職するには、この肩書きが非常に有利なもので初任給が
8−9万円、日本に較べても3倍、物価が2倍高とみてもはるかに条件がいい。
また、インドやアフリカ諸国から来ている学生は祖国で高校や大学を出てきて
こちらで1学期から始め、6年位かけてDiplomをとりドイツに就職するものが多い。
彼らは国に帰ってもそれに見合う地位が得られないからいきおいこっちに残る
ことになる。またDiplomを取った後教授の推薦で給費生になり、アメリカに
渡ってドクターコースに入る者もいる。
日本から来ている人間について
Stuttgartでは音楽大学にきている学生を除いて僕と白川氏と他にもう一人。
退職金までハタイテ出してくれる親父さん! 朝から晩までいやいや先生を
させられてるオフクロさんに。このスネカジリ虫(この虫は紀子に言わせると
家を食いつぶす虫だ)は本当に感謝しています。
私費なんかで出てきてる馬鹿者はいない。こう言うと白川氏もばか者になるけど
彼は6年間働いた金と残りの半分は兄貴(医者)から借金して来てるそうだ
彼も言ってる ”勉強は他人(ひと)の金ですべきだ”って
そこでこの他人の金できている人間について、3種類ある。
1、フンボルトで来てる人 フンボルト財団が支援
2、DAAD 〃 ドイツ政府が支援
3、会社から金を出してもらって来てる
1と2は期間は1年だけれど皆あと1年延長している。
3は普通1年間だ。
1は博士と言う肩書きまたは助教授以上の人で年は34.5歳が多い。研究所か大学に
残って研究してるヤカラだ。彼らは月に8万から12万円もらってる。
多い方はこちらの大学で講義することが義務付けられてる。
2は普通、大学院を出た者でこれも大学に残って(圧倒的に国立)助手をしてる者が
ほとんどだ。年は25,6歳が多い。彼らは月に4万円位もらってる。
それ故今まで普通の会社に勤めていて給費できた人に会ったことがない。
今度富士通から2人来るそうだが本当かな?
大学を出て、すぐ給費でこちらに来ることは殆ど不可能らしい。
大学院以上の学歴か会社で成績がよく会社から出してもらうしかないようだ。
給費できてる連中は来る前からこちらの教授にコンタクトがあり、皆研究室に入って
授業聞いたり、研究したりしている。なぜなら彼らは大学院を出ているから
こちらでは、Diplomが終ったものとみなされ、研究室でドクターアルバイト
なり自分の好きなことを出来るわけだ。
ここには、他に音楽大学が一つある。ここにも日本人が大分きている。
彼らは殆ど全員が自費でもっとも彼らは日本では特にピアノはねこもしゃくしも
ピアノ、ピアノという世間のバかな母親達のお陰で月7,8万は稼いでいた裕福な
連中だ。年も若く22,3歳で女の子も一人で来てる。
皆2年くらいここにいるようだ。
帰ればまた一段と稼ぎ高が多くなる羨ましい連中だ。
先に、6,7年かかってDiplomを取ってこちらに就職する後進国の学生に話をもどす。
日本からはそんな連中は来ない。まず日本では、Diplomまたは、Doktorでさえ
肩書きをもっていたって優遇されるわけじゃない。はっきり言えば人より多く給料を
もらえるわけじゃない。またこちらに就職を許す親がいないためわざわざDiplomを
取りに来る連中がいないのだと思う。
ところで他の国の大学卒の者はこちらでは、第5学期、即ち大学3年生に強制的に
登録される。国によって学問のレベルの相違により大学を卒業した者でも第1学期
からやらされる。例えば、インドその他後進国それで8学期(4年)の終りまでに
主なDiplom試験を受け半年位論文にかかると計算上は2年半でも外人は語学の
ハンデがありいきなり第5学期に入れられその学期の単位を取った者は殆どいないと
言っても過言ではない。結局最低3,4年かかる。また途中からやる人はあまり
いないようだ。殆どが第1学期から始めて6,7年ドイツにいるという人が多い。
とにかく大学で3年生程度のつまらん授業をボサっと聞いているバカは俺と白川
だけだ。最初の1年間はどこに入ろうとも語学が思うようにならず順調にいくのは、
誰彼問わず2年目からということになる。
だから会社から1年の約束で金を出してもらっているものは研究そっちのけで
やれ今月はどこへ、来月はあっちへと旅行のことしか考えていない人もいる。
無理も無いと思う。最低1年の語学習得期間はどうしても必要なように思われる。
とにかくはじめからぺらぺらしゃべれる日本人は一人もいない。
だから1年しかいないで帰った学者や会社員は研究したといってもおして
知るべし。(例外の人もいるだろうが)
僕自身のことについて
今の状態では研究室に入ることも不可能だし、結局来年も大学3,4年程度の
講義を聴いて終ってしまうのがおちだ。
正直なところ自分が何しに来たのかわからなくなてくる。
こんなことを書くと今直ぐにでも戻って来いと言われるかも知れないが自分としては
最低語学だけはどうにかする積りで頑張る。
2年間のここでの生活は絶対にマイナスになるとは思われない。
父母へ
3月2日 茂
追伸
Frost家 電話 xxxxxxx
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1965年3月18日 (木)
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1965年3月22日 (月)
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1965年3月29日 (月)
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1965年4月2日 (金)
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1965年4月7日 (水)
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1965年4月10日 (土)
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4月8日に無事Stuttgartに戻りました。
途中インスブルックやザルツブルグでは、所々にまだ雪が残り春はまだという
感じです。ここは、オーバー姿も少なくようやく春の気配が感じられます。
来月になれば、花がいっせいに咲き一年中で一番良い時期といわれています。
先月、16、21日付けの手紙受け取りました。
車の持ち帰りは、残念なことに、ダメらしいですね。
週刊誌もたくさん来ていました。
例のニューハウスの2月号もこれには、”3世帯が一緒に住む家”となって
いましたが、多分3世代の間違いでしょう。そしてオフクロさんの”素人案の
平面図は敷地の広いのに任せて、恐ろしく大きく膨らんだ間取りでした”と
皮肉られているね。また敷地の利用法の甚だまずい例と・・
富士通からやはり2人DAADで来るそうだ。
手紙がきた。いろいろ教えてと。
今度の旅行でたくさん写真とりました。出来次第送ります。
4月10日 茂
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1965年4月19日 (月)
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1965年4月24日 (土)
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漸く今日は、青空になりました。一昨日パリからもどりましたが、パリでは、
殆ど毎日雨に降られ、時には霙に変るという天気でした。
訊いてみるとStuttgartもこの一週間雨が降ったり止んだりの悪い天気
だったそうです。パリでは、ユースホステルに泊まりましたが建物は改良中で
クローズ。その庭に大型テント5つあり、皆そこに寝かされた。土日はそれでも
満員。昼間霙が降り。夕方から一段と冷え込み毛布を4枚掛けても夜中に
何回か寒さで目覚めた。幸い風邪は、ひかなかった。
食事はいつもセルフサービスの店で済ませた。棚から好きなものが選べるので
料理の名がわからなくても美味いものが食える。
毎日ビフテキをとってた。
ルーブル博物館では、モナリザ、ミロのヴィーナス、などみた。セーヌ下り
エッフェル塔、ノートルダム寺院に上ったりモンマルトルの丘、ルクサンブール
公園、凱旋門、シャンゼリゼー通り、コンコルド広場、などを見て歩いた。
鯉のぼり受け取りました。早速荷を解いて組立て、坊主贈る積り。
4/12にだしたイタリア旅行の白黒フィルム着きましたか、昨日はそのカラー
フィルムを送りました。これには、説明をつけませんでした。
2月に出したスタイルブックの本が着いたとのことですが、スタイlルブックでは
なく、ある家具ショップ出だしているカタログで宣伝のためのものです。
タダでくれるそうです。Fam]Frostから譲ってもらった本です。
学校も間もなく始まります。兎に角元気にやってるのでご心配なく。
4月24日 Stuttgartにて 茂
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1965年5月31日 (月)
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26日付の消印のある手紙受け取った。シケタ話が書いてあったね。
手紙を出さないからって5月から学校が始まっていて全く変ったことが
ないので出さないだけ。
ドイツは今年天候が不順らしい。例年なら五月は、良い天気なんだそうだけど
雨ばかりだ。24日にここStuttgartにエリザベス女王とエジンバラ公がやって
きた。駅から近くのテレビ塔までオープンカーでパレードした。
沿道はイギリスの小旗を手にした市民がぎっしり。エリザベス女王も大きいが
夫君の方が輪を掛けて大柄なので小さくみえた。でも綺麗だった。
6月の6,7は、ピングステンで休み、6月5日から12日までルクセンブルグ、
ベルギー、オランダを廻って出来れば10日夜Koelnで片岡氏に会うつもり
だけどあくまでも予定だよ。
ところで、Frost氏が昨日オフクロさん宛手紙書いてた。
チェスの用具を僕に贈るってことらしい。というのは、彼からやりかたを
教えてもらった。時々やっているが、最近は、僕の方が勝つ数が多い。
6月25日過ぎにFrost氏に下宿を出ると言う積り。1月前に言うのが慣例だから。
兎に角3ケ月空けるので(学校は7月一杯で終る、8月は旅行、9、10月は
フランスノリヨンのフランス語学校に入る。)その間下宿料を払うのは、
馬鹿らしいからね。10月の18日でリヨンは、終るからそれから帰ってきて、
下宿を探す。折角親切にしてくれたFrost家を去るのは嫌だけどお金には
換えられないから。
元気でいるから心配するな。 茂
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1965年6月9日 (水)
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1965年6月10日 (木)
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1965年6月12日 (土)
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昨日Stuttgartに戻りました。旅行中は、生憎天気に恵まれず小雨や曇りの日
ばかりでした。それでもあちこち見て廻った。途中ケルンで片岡さん一行に
お会いし、夕食をごちそうになり、その上、同じホテルに泊めてもらった。
バス付の2700円くらいの高い部屋だった。その晩はゆっくり風呂に入り
疲れをとった。翌朝1時間ほど皆とす市内をぶらぶら。片岡氏がTCを換金のため
銀行にお伴したら”こづかい”にと30DMいただいた。
後一行lハ、タクシーで空港へ、そしてベルリlンに飛んだ。僕は空港までは
いかず、ホテルで分かれた。(4人しか乗れないし、その必要ないと思ったから)
今、下宿は出ない方が良いlという手紙を読んだよころ。
出来れば清水か富士通の人に部屋を使ってもらえというが清水は、まだ入学
申込もしてないし、来年来るかどうかという段階だし、富士通の方は、8.9月
とゲーテに入る。(DAADで来ると必ずゲーテの会話学校に入れられる)
そんなに都合よくはいかないよ。
でも、出るなと言うんだから出ないで2重に払うよ。大熊に電話したり相当
騒いだんだな、つまらんことしないでくれよ、信用ないな全く!
僕がチェスのハガキを書いた翌日、チェスの用具一式頂いた。
フロスト氏の体重、身長と言うがキモノかなにか贈ろうかなんていってたから
僕はその必要がないと思って書かないだけです。今後も書かない。
少し贈り物しすぎる。ピングステンの説明lがしてないというけど、あんまり
ぎゃあ、ぎゃあ言ってくるなよ。そうでなくとも面倒なんだから。”元気だ”
茂 1965年6月12日
下宿にて
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1965年6月21日 (月)
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もう6月も下旬、日本だと6月1日に衣替え、僕なんか毎年5末からYシャツ
1枚で通勤してましたが、こちらでは、まだ昼間25℃位、Yシャツ姿はまだ
見れません。(この手紙を書いてから3日程暑い日が続き、Yシャツ姿が増えて
きた。)不順な天気もこのところ定まって晴れた日が続いています。
4月中頃から降り続く雨で、ラインやドナウが増水し、僕がゲーテにいるとき、
出かけたPassau(オーストリアとの国境近く)では、ドナウ河が氾濫し、住民は、
近くの高台に避難したそれでも数人の死者が出たというニュースやベルリンで
西ベルリンの男が連れの女性と東西ベルリン近くの運河でモーターボート遊び
をしているとき誤って東ベルリン領へ入って東ベルリンの見張りに撃たれた
そして男は死に、女は重態というニュースもありました。
多分このニュースは、日本でも報道されたと思いますが・・・。
ところで先日の旅行のカラーと白黒写真が出来上がりましたので、説明を
つけます。 説明は省略
別便でフィルムと同時にフラッシュガンコードの片端がダメになってここでは、
直せないので、どこかで直すか、同じ物を買うなりして送付して欲しい。 茂
6月21日 夜
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1965年7月10日 (土)
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1965年7月27日 (火)
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皆どうしてる 元気?
僕は、相変わらず元気です。
もう真夏だというのに昼間23℃位にしかならない日もかなりあります。
東京よりは、ずっと過しやすい。今年は異常で、例年だともっと暑くなる
ようです。先日は友人と近くのフライバード(プール)に行って泳ぐというよりも
周りの芝生で日光浴と目の保養(女性は皆ビキニでスタイルがよくおっぱいも
でかい)をしてきました。
プールといってもミネラルバートで炭酸水です。サイダーの中で泳いでいる
感じです。勿論味は、全く違います。映画もよく見に出かけるけどまだ1/3位
しか解らない。船便で下記のものを送ってほしい。
近代世界史の本(18世紀以降が詳しく出てる参考書)他に高校の”世界史”の
教科書も、缶入り味付けノリ、栄太ろうの黒飴、いかの塩辛、センス、こけし
フラッシュガンのアクセサリーシュー(オリンパスF用に最近作られたもの)
女性自身はもう送らんでいいから朝日ジャーナル、中央公論の他に月刊
自家用車という本,以上ですが、これ以外は送らないで欲しい。
それから、前に送ってもらったテープは、レコーダーがないのでまだ聴いて
ない。
ところでそろそろ学校に見切りをつけて工場で働こうかと考えているのだけれど、
どうだろう。Stuttgartのジーメンスは事務所だけなので例えばカールスルーエ、
あるいは、ニュルンベルク。ジーメンスじゃなくてもいいが、1ケ月400-500DM
稼げる、この場合Praktikant(実習生)という名目でなら働ける。清宮氏あたり
から紹介状でももらえばわけないと思うけど。
兎に角8月は北欧に旅に出るし、9月13日から10月18日は、フランスの
リヨンなので旅先から手紙をだすのでよろしく 茂
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1965年8月4日 (火)
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1965年8月8日 (日)
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1965年8月15日 (日)
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1965年8月25日 (水)
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1965年9月5日 (日)
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昨晩9月4日無事Stuttgartに戻りました。8月4日に旅行に出たので丁度1ケ月
間でした。
前便で書いたとおり、コペンハーゲンでユースホステル長野県のペアレントの
会長さんと知り合いそれ以後一緒に旅行しました。まずコペンハーゲンに
着いたのでユースホステルに行きましたが、既に満員で他へ行くよう言われ
他をあたったが、そこも満員。午後8時まで待ってれば部屋が取れるかもと
言われ、待っていた。すると個人の家を紹介してくれた。
旦那がデンマーク人で奥さんがポーランド人の40歳前後の夫婦の家だ。
僕と他にニュージンランドから旅行に来たと言う英語しか話せない青年が一晩
ごやっかいになることになった。その晩は風呂に入った。
そこの風呂は西洋バスというより、日本の風呂に似てた。
翌朝ドイツ語を話す主人は外出して、僕とニュージーランドの青年と奥さんの
3人で朝食となった。奥さんはデンマーク語とポーランド語しか話せずとにかく
チンプンカンプン。
それでも僕はロシア語をほんの少しかじったお陰でかなり似た単語例えば数の
数え方やその他幾つかの単語が理解できた。あいづちをうって笑っていた。
再び前のユースホステルに出かけたが今日も満員だと断られた。
その時例の会長さんに出会い、彼は語学がだめだが、それでも既にドイツの
ユースホステルを見て回りボンで3ケ月働いていたということだった。
その晩は彼の秘書ということで幸い部屋に入れてもらうことが出来た。
翌日彼の通訳としてユースホステルの世界のボスと言われるロバート・オルセン
氏に会いどうやら役目を果たせた。そしてストックホルムに行く途中2,3の
ユースホステルに泊まったが、それぞれそこの管理者に会い通訳した。
そしてストックホルムへ。
ここのユースホステルは船をあてたもので世界で最初だそうで日本でも真似て
横浜の氷川丸がユースホステルになっているそうだ。
会長さんと2人でそこから北へヒッチハイクで旅を続けることにした。
彼は既にヒッチは経験ずみだが、僕は初めて。とにかく2人で街のはずれ、
アウトバーンの入口までバスで出かけた。彼は今までもそうしてきたと言って
日本の小旗を取り出し、振り始めた。30分ほどしてドイツの青年でスエーデンで
研究しているという人の車に乗せてもらった。それから何台かを乗り継いだが
その日は小手調べと言うことでウプサラの町までしか移動しなかった。
夜は野外のダンス場へ彼と出かけ12時近くまで踊ってきた。
彼は52歳だと言うがどう見ても35歳位にしか見えずすごく気が若い人。
心臓も強い。翌日は500km程走ってウメオまで行った。もっと北を目指して
フィンランドの方へ廻る計画でしたが北の方は8月20日過ぎになると閉鎖する
ユースホステルが多いとのことで予定を変えてノルウエーのほうに行くことにした。
そしてスンスバルに戻りオーレへ。何台か車を乗り継ぎ最後の車はガソリンが
なくなってエンスト。停まったところが丁度ユースホステルの前と言うラッキーな
良い日でした。
ここオーレのユースホステルはユースホステル協会に加盟していない個人営業の
ものでした。そこの40位の主人は独身のやり手で昔はきこりをやっていたが
ここに来てこの土地に目をつけ観光開発を始めたという変わり者。
オーレはスキー場として国際的に有名なところで彼のここに来た時は古ぼけた
農家が一軒ポツンと建っていた。
それをユースホステルに自分で改築し、昔の刀やなべその他の骨董品を集めて
飾りつけすごく感じのいいロッジになっている。夏のユースホステル利用者よりも
冬のスキー客の方が多いとのこと。夜は集まってきた村娘達とジュークボックスの
ツイストのリズムに合わせダンスした。彼はとても気にいって一晩の予定が二晩
そこにごやっかいになった。(後年、彼はここに戻ってきて住むことになった。と)
それから国境を超えてノルウエーのトロントヘイムへ。国境といってもどこが国境
だかわからず勿論パスコントロールなどなく途中でそれまでのスエーデンは日本と
同じ左側通行だったのが、右側に変わってハハアここが国境だなという程度。
このスエーデンも1957年から足並みをそろえて右側通行に変えるそうです。
いままで車を何台も乗り継いでと簡単に書いてきたが大抵朝10時から始めて
宿に着くのは、夕方です。3.4時間待つのはざら。次に書くトロントヘイムから
オスロに行く途中のドンバスでは、雨の中に2人で8時間立っても停まってくれず
その日はまた同じ宿にとぼとぼと帰った。翌日6時間立ってやっと20kmほど
進んで次の宿にたどりついたことがあった。
そしてオスロへ。オスロに着く最後の車は70kmほど離れた小さな村からわざわざ
オスロまでダンスに行くという女子大生二人の車が停まってくれた。
夜も9時近かった。車が20mほど行き過ぎて停まったので例により僕が
駆けて行き話しかけた。オスロに行きますかと。そしたら一人が
Are You dangerous? と訊いた。とにかく車に乗せてもらえたが、彼女達は
まだヒッチハイカーを乗せたことがなく彼の小旗を見て日本の学生だと思い
停まったそうだ。いろいろな人に乗せてもらった。水夫、空軍のパイロット、
エンジニア、若いアベック、老夫婦、学生、オスロからストックに帰る途中
は日本人家族の車に。とにかく楽しい旅でした。
茂 9月5日
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1965年9月10日 (金)
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1965年9月17日 (金)
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ここに来る途中ミュンヘンでM氏に会い、実習の件相談しました。
初め僕は、現場の試験課で(富士通でやってたこと)実習しようと考えそれを
言いましたが、(僕が富士通でやってた機種;電話の中継器、その他の主力
製品はベルギーのブリュッセルから100kmはなれたOstkampfにあるそうで
雑物がミュンヘン近くのKemptenとBerlinにある)M氏はそれよりもミュンヘン
の中央研究所の設計研究で実習し、ZLおよびTA(何の略だか忘れたけど設計と
次の段階)の関連を勉強した方がためになるんじゃないかと助言がありました。
なおこの場合シーメンスからその仕事がシーメンスに役立てば富士通に関係なく
賃金を払うことだったそうです。そしてM氏の話ではもし設計と次の段階即ち
ZLとTAで実習するとすればこれは、Informationを受けるだけになるから金は
もらえない、試験課で実習すれば初めは慣れないから金が出ないが、慣れれば
立派に会社に役立つから金が出るでしょう とのことでした。
でも、僕はその際、ミュンヘンの中央研究所でZLとTAの関連を実習したい
述べました。
期間は6ケ月即ち11月初めから4月末までということにしました。
でも期間が延長出来るならそうしたいともつけ加えました。
M氏のもとにS氏からの手紙も届いているみたいでそれには、留学は1年、
あと1年をシーメンスで実習と見なす。期間は、結局2年を超えないこととありました。
M氏は僕と打ち合わせたことを清宮氏に報告すると言ってましたがその際、
僕の実習期間延長希望があることも書きそえてくれました。
今日M氏から、ここに手紙があり、先日打ち合わせた内容をシーメンスの
担当者(Koska氏)に話をし、OKと分かったそうですが、その際、KOSKA氏
からZLとTAでの実習に加えて試験課の実習も可能、即ち6ケ月を3等分し
ZL,TA,試験課実習とするというものです。
一方M氏が否定した試験課だけでの実習に関し、KOSKA氏はM氏と意見が
異なり結構うるところがあるといわれたそうです。すなわち、試験工程管理測定器
の構成、配置、人員構成、試験部門の組織、など関連した情報が得られるので
これもOKだといったそうです。
そして僕に、ZL−TA−試験を実習するか、あるいは、試験のみを実習するかを、
もう一度最終的にM氏に知らせて欲しいとありました。
それで僕はZL,TA,試験をやらせて欲しい旨返事をしました。なお試験はBerlin
を希望しておきました。それと同時にM氏は詳細をS常務にも報告したそうです。
僕の期間延長希望があることも記してくれました。
そしてこの希望について「大至急」両親を通じてか或いは直接常務宛に手紙を
出すようにとのことです。
それでこの期間延長希望をS氏に話して欲しいわけです。
即ち1964年7月1日から2年間休職となっていますので1966年6月30日までと
いうことです。実習期間を11月から4月末まで6ケ月としたのは、帰り船で帰りたい
から。(1ケ月かかる)そうしたわけですが、半年なり1年なり(勿論富士通が金を
出してくれることを前提として)延ばしたいわけです。
そして、実習期間の3分の1を試験課で実習した場合はいくらかの金がシーメンス
から出るだろうと思います。とにかく最初の4ケ月2末まではミュンヘンの研究所で
勉強する積りです。期間延長が決まればそれをいくらか延ばすなり、ベルリンでの
試験課での実習を延ばすなりしたいと思っています。
9月17日夜 リヨンにて 茂
追伸
ミュンヘンの下宿はここが10月18日に終ってから帰って探す予定です。

フランス語の先生達 |

休みに出かけた
アビニョンの端 |

アルルの円形競技場 |
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1965年10月4日 (月)
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1965年10月10日 (日)
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今日はどんより曇って少し肌寒い感じですが、暖かい晴天が長く続きました。
去年の今頃、ドイツに居た時よりずっと暖かい気がします。一昨日ベレー帽を2つ
黒に近い紺色のを買いました。850円/個。ドイツに帰ってから船便で送ります。
僕が送ったカラーフィルムは、ちゃんとスライド用に枠をつけてありますか、
ないなら、枠だけこちらで買っておくりましょうか、チョット高いけどとれもいい
枠です。
おふくろさんの手紙、一通もなくさず保存してあります。ご心配なく。
親父さんが自動車の練習をはじめたそうですが、調子はどうですか。今年中に
とれそうですか。
先日、フロスト氏に部屋を出るという手紙を出しました。やっぱり突然なので
大変びっくりしたとの返事がありました。
僕の後に富士通から来た留学生が入ることになりました。大熊の来独が早くに
分かっていたら彼に譲りたかった。ここは16日に終り途中スイスを廻って
21日頃ミュンヘンに行き、1週間かけて部屋を探し、たとえ見つからなくとも
28日頃Stuttgartに戻り荷物をまとめた月末に出る予定です。
ここは、Stuutgartよりずっと住みよい感じです。
暖かいし、大学食堂の食事はうまいし、欲を言えば、まだフランス語が自由に
しゃべれないのが難点。できれば、半年位住みたいが・・・・。
とにかく来年6月に日本に帰らなきゃならないので残念。
仕方ない。会社をけって他でアルバイトしてでも(例えばストックホルムで)
出来れば、そして許されるならあと2−3年は、ヨーロッパに居たいところだが、
シーメンスにアルバイトを申し込んだのが、あるいは、生涯においてマイナスに
なったかもしれないような気がしてきた。
つまらないこと書いたけど、あまり気にせんで、欲しい。紀子に
真っ白な毛の帽子買った。
茂 10月10日
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1965年10月21日 (木)
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今日10月21日Stuttgartの下宿についた。昨夜はミュンヘンに泊まり、
夜、M氏を訪ねたが会社から正式通知がまだ来ていないとのこと。
M氏は14日に催促の手紙をS常務とI 氏に出したとのこと。
下宿の件は、どうも見つかりそうもないので、シーメンスの寮に入るつもりで
M氏に訊いてもらうことにした。26日に大熊がミュンヘンに来るのでもう一度
26日にM氏のところにいき、2−3日ミュンヘンに滞在し29日にまた
下宿に戻る。そして31日ミュンヘンに。26−28で下宿の件ははっきり
する。M氏の話では、寮は収容人員が多いのですぐにはいれなくても、待てば
少し待てばすぐ入れるだろうとのことで僕も同感、無ければ、しばらく
パンシオン住まいになる。以下にカラー写真の説明(記述省略)、
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1965年10月30日 (土)
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皆さん お元気のことと思います
29日に電報受け取りました。
ミュンヘンの下宿はMさんがシーメンスの寮に申し込んでくれ、11月1日から
入れることになりました。
大熊も無事ミュンヘン空港に着き2日間ミュンヘンにいて今、一緒にStuttgart
に来ています。彼はStuttgart大学の入学を半年延ばし、ゲーテの会話学校に
入ることに決めたそうです。
彼から手紙、ネクタイ、本(地底の泉歌集も)受け取りました。
引越し荷物が多すぎるので、今朝、小包2ケ(必要ない衣服、帽子、古い手紙、
チェスの用具など)送りました。
タコは下宿の坊やに作ってやりました。非常に喜んだ。独文の母さんからの手紙を
見ておおいに喜んでくれた。
そちらからの小包1ケ届きました。フラッシュガン、カミノモト、うに、塩辛、こけし
センス、その他。(どうもありがとう)
それにしてもカミノモトをどうしてこんなに多く送ってくるんだよ!
大きなビンが3ケもあるのに合計5ケ。捨てるかもしれないぞ!
何も要らないからもう送ってくれるな!引越しで荷物になるだけだ。
冬物の下着だって、ほとんどみな一度も着ないで日本にもって帰ることに
なるだろうよ。あまり荷物になるようだったら捨てるよ。
僕が送って欲しいと書いたもの以外絶対に送ってくれるな!
茂 10月30日 Stuttgart 下宿にて
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1965年11月6日 (土)
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1965年11月20日 (土)
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前略
11月10日前後にヨーロッパを襲った寒波で2,3日雪が降って昼間でも
マイナス5℃位の時がありましたが、その後雨が降って暖かくなり天気予報では、
クリスマスまではさほど厳しくはないということですがどうだか?
ところでシーメンスの実習の方は10日にMさんと一緒に担当者に会い
15日の月曜から勤めはじめました。
初めに予定していたZ.L(中央研究部門)には、席がなく(というのは1年以上
やるならともかく半年では、実にならないので具合が悪いということ)結局T.A
(Technishe Abteilung技術部門)である期間やって(1月末か2中まで)その後
Pruffelder(試験部門;富士通でやってた部門)で現場実習をやれば良いのでは
ないかということになった。
またベルリンにはなるべく行かずに(引越しなど大変)ミュンヘンで4月末まで
実習した方がよいのでは、と。これはまだ決まっていない。
とにかくT.Aで始めた仕事は試験指導書作成朝8時10分前に開始なので寮は
7時に出る。市電に乗って通っている。4時半までで、土、日は休み。
富士通から金のことは何も言ってきていない。シーメンスでは、Informandという
身分なので金はくれないという話。
とにかく引越しを済ませ大熊をまずStuttgartの大学の延期を頼んでからここから
60km離れたBad Aiblingという村のGoethe Institutに入れて自分の仕事も始まり、
やっと一息ついたところです。
寮といってもシーメンスの客の為のホテルという感じであまり他人との接触は
ありません。というのは、朝食はホテルでとれますが、朝6時半には、2,3人しか
おらず。昼間は、会社で、夜は6-7時までパンと紅茶位食べれます。
夜7時半からTVが見れます。
T.Aでは10人部屋の一員になって昼食の時は、皆と一緒に出かけ、また皆親切
なのでうまくいってます。
富士通と違う習慣;
朝部屋に入ると皆に握手して挨拶します。
朝9時半過ぎに紅茶を入れてくれ、皆持参したパンをかじっている。
(2回目の朝食という)
タバコはいつ吸ってもかまわない。歩行中もよし。(工場の庭)
始まる時間が部門によって10分位ずれている。
昼食も11時半から2時半まで交代で食べるので混んでない。
食事は0.75、と1DMの2種類あり、毎日献立が変る。
1DMの食事はStuttgartのメンザ(学生食堂)のより少しまし。
というのは、週に2−3回米がでる。Stuutgartは1回きり。
夕食は、ないので帰りにミュンヘン大学のそばを通るので
そこのメンザで0.8DMで一段と落ちる食事をしてる。
足りない時は、寮のそばのセルフサービスの立ち食い屋で
スープやマカロニなど詰め込んで帰る。
母さんの出版記念会には以下の電報を打つ予定がハガキで済ませた。
WAKIDERO IZUMI
KARERUNA IZUMI
KAASAN GANBARE SHIGERU
持参した薬、送付しれもらった土産品、多くの下着などほとんど使わずに、
持ち帰ることになりそう。余って仕方ないから何も送ってくれないで欲しい。
食べ物も要らない。
ミュンヘンに新しく開いた口座番号;
xxxxxx Dresdner Bank
8 Munchen 23. Leopoldstr.37
世界の歴史の本5冊着いて今2冊目を読んでます。 茂
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1965年12月4日 (土)
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勤めだして1ケ月が過ぎようとしてます。
変りはなく、元気に出勤してます。
先日、I 氏にもお会いし、(彼はGrafingの会話学校に行ってます)
夜、M氏、I 氏、シーメンスの2人、富士通から短期実習にきた
2人と会食しました。
先日、ミュンヘンのM.Mの支店に五月の船の切符を申し込みました。
あと1000ドル送金してもらえれば間に合います。
大熊の住所 割愛
とにかく 元気だから 茂
1965年12月4日夜
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1965年12月11日 (土)
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1965年12月15日 (水)
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あんなに何も送ってくれるなと書いたのに読めないのかバカヤロー
コケシなんか机の上にまだ5個もごろごろしてるのに封を開けずに
送り返すからな。過ぎたるは及ばざるがごとし。
3日前に奥歯2本虫歯で抜いたんだがなかなか血がとまらず、
会社を休んで毎日医者に通い寮で静かに横になっているんだが、
片方のほっぺたが腫れ上がり2晩寝れなかった。最初の晩は、
痛みもさることながら、10分おきに口にたまる血を吐き出さねば
ならない。めしもろくに食えないし、おまけに風邪気味で体調悪い。
今日は、どうやら血の出方も少なくなったし、ほっぺたは腫れてるが
風邪は治まって快方に向ってる。
勿論保険が効いてるからお金の心配はいらない。
船は正式に申し込んだから心配いらない。
今回ばかりはいやというほど血を呑み込んだよ。
今まで手足に傷を作っても血がとまらないということは一度も
なかったはずだがただ一つ、心当たりは朝起きて唾を吐くとその
中に少し血が混じることが時々あった。(日本にいる時)
今朝は病院で血液凝固検査をしてもらった。結果は明日わかるけど
別に異常はないと思う。心細い ではまた 茂
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1965年12月20日 (月)
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今日は12月20日 これから歯医者で抜糸してもらいます。
会社には、金曜日から元気に出ています。腫れもすっかりひき、出血も漸く
おさまってやっと安心しています。
どうもお騒がせしました。
こちらは、11月半ばに一時猛烈に寒くなりましたが、それ以後穏やかで今は、
思ったより暖かです。
1972年のオリンピックの候補地にミュンヘンが上がっていますがその可能性が
強くなり、町自体も大変な気の入れよう
です。町では、Tokyo Olympic の映画が上映されています。
クリスマスもあと1週間足らず、町のいたるところでモミの木が売られ、
ショーウインドウも綺麗に飾られて百貨店も大入りです。
でも、東京と違い、街を歩いていてもジングルベルの曲が響いてこないっこと。
街自体がとても静かです。
それでも夕方の退社時は、特に市の中心部では、自動車が渋滞、混乱しています。
休みは、クリスマスの3日と正月3日しか休みが無いので残念ですが、ここに
留まることにしました。
大熊はゲーテの友達とチロルにスキーに行くそうですが、Stuttgartの白川氏も
元気に大学に通っているそうです。
ところでここで働いている日本人と知り合いになり彼が彼の友人から金を借りて
いるが送金の枠がないので僕のドルの枠余っているから10万円だけ枠を貸して
やることにしました。
多分1月初めか中頃長崎の両親から日本円が母さんの所に送金されてくると
思うのですぐに僕宛払い込んで欲しい。僕自身の金は2月でもいい。
今年はクリスマスと正月の挨拶は、どこにも出しそびれたが、
皆様によろしく伝えて下さい。
茂
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1965年12月25日 (土)
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昨日、駅の旅行案内所でギリシャ行きのことを訊ねた。12月16から24日までは
Platzkartepflicht(座席指定)で完売だが、25日以降は指定席は15%で前売りで
25日分は売り切れたが当日早く並べば座れるだろうとの話だった。
切符の有効期間は2ケ月で払戻が効くこと。今度が最後のチャンス、そして天気が
良さそうだったことなどがギリシャ行きを決断させた。
それまでギリシャの他にイタリア、スペイン、ギリシャ(飛行機で)といろいろ
計画したが・・・。
午後15:56と20:00の2本アテネ行きがあり、20時のはGastarbeiter
(出稼ぎ労働者)優先なので15:56で行くこととし、だめなら20時、それも
だめなら中止して払戻してもらおうと決めた。
24日に切符を買い、カラーフィルムとボストンバッグ(航空カバンが壊れたので)
を買って準備を整えた。
食料品は25日に買えばいいだろうと思った。当日は残念ながら店が閉まっていて
コーラ2本とリンゴジュース1本買えただけ、食べ物は残っていたビスケットだけ。
25日朝10時に駅に急いだ。天気は良好、風は冷たかった。
まだ並んでいる様子はなく、ボストンバックの山が2,3箇所出来ていただけ。
18番ホームを先の方へ歩いて行くと荷物用台車の上に30前後の背の低い
ギリシャ人の労働者風の女性2人(一人は既婚のようだ)が寒そうに毛布に
包まっていた。何となく話かけて、彼女らは、ギリシャ第二の都市テッサロニキ
(アテネに行く途中の町でテッサロニキーアテネは汽車で8時間)まで行くとのこと。
一人は乳母車に赤ん坊をのせ時々ホームを行ったり来たりしていた。
じっとしてると寒いので腹もへったので、ホームを出て駅のレストランにとびこんで
1時間ほど過した。2時を過ぎても誰も並ぼうとせずボストンバックの山が少し増えた
程度、彼女達の話では3時に汽車が入線してくるとのことだったが2時半に入って
きた。初めは違う我々の汽車と違うだろうと思ってたが、不安になって駅員に
訊いたらその汽車の先頭車両がアテネに行くとのこと。急いで席を探した。
その車輌は8つのコンパートメント(小部屋)で4つが1等、結局32人しか座れない。
それでもまだ2つの箱が空いていた。俺は早速彼女達を手伝って8ケの荷物を
網棚に載せやっと一息ついた。すると一人の男が駅員を連れてきて切符を見せ、
ここは俺の席だ。と言い出した。その箱は8人のうち6人分が既に予約されて
いたのであった。
そういえば、箱の戸口に2つだけNicht Reservirt(予約なし)と書いてあった。
入る時気づいてきたが駅の案内所の15%しか座席券は前売りしてないと
いうことが頭にあったので多分間違いだろうと考えてしまった。
結局駅員が2つの席は彼女達に与え、俺に他へ行けといいやがった。そして
3時半にドルトムントから着く汽車の1箱がアテネ行きになり前に連結される
とのことで俺はそれをあてにした。その時、うかつにも、てっきり空の箱がつなが
ものと思い込んでいた。 いざ。。鈴なりだった。仕方なく元の箱の通路に立って
いくことにした。他にも数人立ち客がいたので、その時はもう次の8時の汽車を
待つ気はしなかった。通路もその時はトランクで一杯だった。
座席に関して初め俺が想像していたのは、多分10両編成の列車でそれが全部
最終駅のアテネまで行き、8両が2等でその15%が予約席と想像していた。
そして丁度ギリシャからの出稼ぎ労働者が帰省するので混雑し、丁度上野の
暮の列車を考えたが大間違いだった。
それにしても思い出されるのは、アテネ行きの切符を案内所で買うとき、係りの
女性に、俺がもし席が無かったらアテネ迄32時間立って行くのかとその時は、
冗談に訊いたら、「Got es Will!」(誰がそんなこと、とんでもない)
と言われ、苦笑したが今は、そのとんでもないことになった。
それにギリシャ人の労働者のグループといえば特に身の回り品に気をつけねば
ならない連中ときている。トイレに立つにも、食堂車(Beograd以後に連結された)
に行くのもオリンパスのカメラだけは手放さず持っていった。
夜は、ボストンバックに腰掛けてうたた寝した。
彼らはよくしゃべり、変な曲の(はじめはトルコの曲かと思った)音楽をラジオや
ポータブル蓄音機で遅くまでかけて喧しかった。
ミュンヘンを発つ時雪はなかったが、2時間ほどでオーストリアに入ってから
雪が10−20cm積もっていた。
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1965年12月26日 (日)
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翌朝、ユーゴスラビアに入ってまた雪が消えていた。
オーストリアに入る時、国境でパスポートの検閲があった。簡単でもっているか
調べたくらい。ユーゴの国境では、他の連中は、ビザをとる金としていくらか
払っていたようだったが、日本人はタダだとすぐにスタンプを押し、国境を出る
とき係員に渡すようにとカードもくれた。
25日夜は殆ど眠れず、26日朝眠くてボストンの上でうとうとしてたら
ギリシャ人のグループが席を1つ空けてくれ午前中はそこで休んだ。
昼は、食堂車で8マルク(700円)払って食べた。帰っても席がないので
夕食の準備をするから出てくれといわれる5時過ぎまでそのテーブルについていた。
夕食も食堂車、パスポートの検閲が来るからと8時過ぎには、追い出された。
夜、10時近く、ギリシャの国境に着いた。この時は、パスポートのみならず、
荷物のまで調べられた。俺を調べた係員はフランス語で話しかけてきて
カメラとラジオの値段聞かれた。適当に答えておいたらOK.
その係員は「自分はパリじの・・学校でフランス語を学んだがその時、多くの
日本人と友達になったと」ととても愛想の良いヤツだった。
若いギリシャ青年で新しい,高級なソニーのラジオをもっていて、係員に
(多分税金を払わせられるだろう)とリあげられていたものもいた。
1時間ほど停車してごたごたしていた。
その後、Einreisekarte(入国カード)に皆記入させられた。
夜中、12時ちかくにテッサロニキに着き、殆どの連中が下車。
俺のコンパートメントは、アテネまで帰省する若いギリシャの労働者と
2人になった。やれやれ、これで各々、4人掛けの席だからゆっくり、
足を伸ばして寝れることが出来る。
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1965年12月27日 (月)
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3時間も寝たろうか、朝4時近く(駅の時計では5時、ギリシャに入ると
1時間の時差)寒さのため目が覚めた。丁度汽車はある小さな駅に停まった。
ここで一騒動もち上がった。テッサロニキから我々の車輌のの暖房を切って
しまったのだ。怒った客がそこの駅長と口論を始めた。頭に来た一人が
汽車の窓ガラスをぶち壊した。その男はすぐに降ろされ始末書のような
ものをとられていた。
30分も言いあっていただろうか、ギリシャ語はチンプンカンプン、
相棒の通訳でその騒ぎは暖房を切ったことに怒っており、結局また入れる
とのことでけりがついた ということが解った。
ただ不思議なことは、我々の車輌だけ切れたらしく他の車輌の連中は
誰も窓から顔を出してなかった。汽車は動き出し暖房はほんのわずか
暖かくなってきた。でも部屋がすっかり暖かくなるには、この調子だと
4−5時間かかりそうな様子だった。
朝8時頃目が覚めた時には、また暖房が切れていた。でもそのときは、
陽が差し込み寒さは感じなかった。やはり南の国の太陽は暖かい。
どこでどう連結されたのか知らぬ間にパリやナポリ、ベニスから来た
車輌も繋がっていた。
昼にアテネに着いた。青空だった。アテネに近づくとアクロポリスの
丘が遠くに見え相棒が説明してくれた。
車中では、簡単なギリシャ語を習ってノートにとった。
相棒と別れ、駅からバスでユースホステルについた。汚いホステル。
暮の27日というのに、アメリカ人だろう、10人あるいはそれ
以上の客がいた。
髭を剃って身奇麗にして外に出た。すぐアクロポリスの丘に向った。
途中で「こんにちは」と後から声をかけられた。見れば22,3歳の
ギリシャ人の学生風の男だった。(今思えば本当に憎らしい、鼻の
でかい野郎だった)ドイツ語がうまかった。「自分は昨日ミュンヘンから
帰ってきたばかりでミュンヘン大学を終え、1月15日に横浜の
三菱造船に半年ほど実習に行くのだと言った。
よかったらお茶でも飲まないかと誘われた。俺は汽車旅で少し疲れて
いたし、まあいいだろうと(時間は2時半頃、天気は良かった)その
男を歩き出した。今ははっきり思い出せるが、その時は、いろいろ
ドイツ語の話しに夢中で何の気なしに誘われるままBARに入った。
客は自分ら2人の他にいなかった。そのうち女給2人が寄ってきて
英語で話始めた。ダンスしたり、キスしたりしてなんやかやしてる
うちに連れの男は自分はこの女を連れてホテルに行くがお前も
そうするだろうと・・・。勘定書がきた。あっなんと一人2万円
その男とバーとはぐるだった。
自分の飲んだジュースは300円だったが、彼女の飲んだ2本の
シャンパン(多分水)が2万円。その時6万円ほどのドイツマルク
をもっていたのが悪かった。払う気になってしまった。
その男は半分払ってさっさと消えてしまった。
その後俺の相手した女はしきりにホテルに誘ったが条件つきだった。
ホテルに行くにはもう1本シャンペンを持っていくとのことだった。
泥沼にはまったようなものだ。このまま引き下がれば2万円ただで
やってしまうことになる。もう1万円だしても女を抱く方がその時は
得なように感じてしまっていた。すぐタクシーが呼ばれ近くの安ホテルに。
小銭を全部バーに払ってしまっていてタクシーに払うギリシャの通貨が
一つもなかった。料金は5.6ドラクマ(1マルク足らず)なので1マルク払おうと
すると1マルクは3ドラクマ(実際は7.4)なので2マルク払えという。
そんな馬鹿な話があるかと喧嘩し、どうせこれからホテル代も払わなきゃ
ならんだろうから、そのつり銭でもやればよいだろうと考え、タクシーをそのまま
おっぽらかして払わずに中に入った。ホテルの女主人が部屋代150ドラクマ
要求した。
50マルク出すとつりを150ドラクマしかよこさない。
50マルクは300ドラクマだといってきかない。
あっどうして馬鹿だったんだろう俺は!
喧嘩したが最後にはそのまま引き下がってしまった。
連れの女は○代を100マルク要求した。もう1銭も払う気はなかった。
にっちもさっちもいかなくなった。
でもここまで来て下がるのは、今まで払った金3万円全てを捨てたことになる。
本当に泣きたくなるほど頭が混乱していた。50マルクまでまけさせ、一仕事
終えた。女はタクシーが外で待っているからと、はじめの2時間の約束もむなしく、
それで終えて外へ。
タクシーのメーターは上がっていた。結局4マルクとられ悪夢の1日が過ぎた。
女一人4万円になってしまった。
夜中に目が覚め憎らしくてその後朝まで眠れなかった。
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1965年12月28日 (火)
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今日は曇り、どうみても昨日アクロポリスの丘に登って夕日を見るべきだった。
あの男に会いさえしなければと思うと・・・。
朝、ズボンを履こうとしたら前のチャックが壊れてしまらなくなってしまっていた。
仕方なく、オーバーを着て仕立屋を探し、最初の店で女店員の前でチャックの
英語の単語がわからず、チャックを指ささねばならないはめになった。
結局もう一軒他の店を教えてくれそこを訪ねた。
1時間したらもう一度来いと言うのでアクロポリスの丘に行き、途中日本人の
2人の旅行者に会い一人はこれからユースホステルに行くというので場所を
教えた。約束通り行ったら30分ほどで新品ととり替えてくれ、50ドラクマ(700円)
払わされた。
昼食後、アクロポリスの丘に登り夕方ホステルに戻った。そこで先ほどの日本人
(長内氏)に会い、夜2人でぶらぶら市内を散歩し、セルフサービスの店で食事を
済ませた。
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1965年12月29日 (水)
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長内氏とここから5km離れた郊外のオリンピアへ(彼が友人からきいていた)
バスで行こうと停留所に行き、切符を作ってもらって値段をみたら一桁多い。
不思議に思い訊いてみたらバスで7時間もかかるという。
時間も金もないのでその切符をキャンセルしてもらった。
それから2人で近くのミューゼアムに行った。
昼食後、第一回オリンピックの行われた競技場を見に行った。
それから、夕日が海に沈むのを見るため(曇っていてちょっと不可能に思えたが、
相棒が明日カイロに旅立つので、アクロポリスは2人とも一度登ったし)近くの丘に
登って待った。
時間もあったし、寒かったので一旦下りてコーヒー飲みに近くの喫茶店に入った。
そこの娘さんとカタコトのギリシャ語で話をし30分ほどすごした。
もう一度登ってみるともう日は沈んでいた。もし間に合ったとしても多分曇っていて
見えなかっただろうということで2人共諦めた。
市内をぶらぶらし、夕食を済ませ一旦ホステルに帰ってまた駅へ。
汽車の時間をききに。同時に彼の飛行便の変更をしに一緒に出かけた。
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1965年12月30日 (木)
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今朝は9時まで寝ていた。もし天気が良ければ夕日を見るためもう1日居る
積りだった。(2日にミュンヘンに着く3日から会社)が本曇りなので2人共荷物を
まとめ、全部持ってレストランに入り、ブランチを済ませた。汽車が出るまで
3時間間があったので彼と喫茶店に入った。そこでギリシャの娘さんと知り合い、
3人で英語とフランス語でなにやかやと話をし、可愛かったのでコケシをあげた。
最後に広場に出て皆で写真とり分かれた。
彼は午後6時の便でカイロに。
水筒と菓子とたばこ買ったらギリシャの金は一銭もなくなった。
汽車は15:40に出発、席は空いていて8人分を独り占めしたが、20分もしたら
ギリシャの徴兵で今軍人だという22歳の青年3人が乗り込んできた。
一人ドイツ語ができるのがいて、うちとけて写真をとってやったり俺が彼らの
帽子と服をきて写真を写してもらったりギリシャ語習ったりした。
彼らはヒッチハイクをしているところをミリタリポリスに見つかり(ギリシャでは
軍人はヒッチハイク禁止だそうな)パクられて1日拘留され、その帰りだという。
でも、とても気のいい青年たちだった。
彼らは軍人になってまだ3ケ月だけれどもギリシャでは、普通は徴兵期間は2年、
ただし5人以上兄弟がいれば1年ですむそうだ。
ドイツができた青年は徴兵がすんだらもう一度ドイツに行くんだと言ってた。
彼らと5,6時間一緒にいただろうか、テッサロニキの一つ手前の小さな駅で
下車していった。夜中の1時近かった。
テッサロニキから労働者風の連中が多数乗り込んできた。
殆どミュンヘンまで行くといい3時すぎまでよくしゃべり寝れたもんじゃなかった。
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1965年12月31日 (金)
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今日も1日なんやかやと彼らはしゃべりやがった。昼、夕食と
食堂車に行って済ませた。6.9マルクだった。
行きは8マルクとられたが・・昼間はユーゴスラビアの平原を走ったが、汽車から
見る限り道という道はぬかるみで舗装はなく家も粗末そのものという感じ。
ギリシャはイタリアよりまだ貧しいようだった。
アテネの町では、丁度暮の売り出しで人出が多く新宿と変りなかったが、
靴磨きあり、宝くじ売りがおり、(あとで写真を送るが彼らは宝くじの券を竿に
さして売り歩く)子供までが売っていた。ある時は食事中にやってきて買えと
しつこくせまる少年もいた。タタキ売りもいた。
家の作りは他の国と違い、他は屋根は△にとがっているのが多いが
ギリシャは□で屋上がテラスになっているのが多かった。
それも大理石なので長持ちするんだろうけれども、相当古く
いまにもくずれそうなのがあちこちに見られた。
食堂車に行く時、先頭車両ががらすきだったのを確かめたので夜は、また彼らと
一緒じゃ寝れないと思いその車輌に移り、ひとりのおのおと寝た。よく眠れた。
それでもパスポートと切符の検札に何回か起こされたが・・・。
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1966年1月1日 (土) 母から1/2付アエログラム
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朝10時40分ミュンヘンに到着。家に帰ると手紙が沢山きてた。ドイツでも休日、
祝日は配達がないので今日、明日来ないのが残念。
髭だけ剃って昼は近くの楽宮楼という中華料理屋に行って、精気を取り戻した。
その店のクロークをやっているのが先日、外貨の枠を貸してくれと言った23歳の
日本人、彼と帰り際、少し話しをして帰宅。風呂に入って昼寝した。
ところで彼の住所など
木村つぐお(父正実、母節子)長崎県・・・
彼が友人から10万円借りるが彼が日本に帰って、僕の枠に払い込み僕がその
友人に渡すことになっている。
木村君は1月21日にモスクワ経由で帰国、1月22か23日に三木の家を訪ねて
金を持っていくからよろしく。
受け取ったら直ぐ払い込んで欲しい。出来れば僕の分もその時払い込んで欲しい。
そんなに金が余ってないので。
とにかく船はエコノミーの一番安いのに決めたから。
でその費用が1525マルク(200マルクは既に予約時に払い込み済み)手持ちで
3月まで生活するのが一杯(かつ十分)4、5月半ばまでと帰りのスペイン旅行費
船などを1000ドル(3990マルク)払うんだからね。
とにかく体は元気だよ。
茂
1月元旦 午後24時 ミュンヘン寮にて
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1966年1月12日 (火) 母から1/17付 1/20付
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お元気ですか
このところヨーロッパに寒波が押し寄せ、地中海のシシリー島やアテネのアクロ
ポリスの丘も(僕が行った日は昼間19℃の暖かさだったが)白くなったという
ニュース。
ここミュンヘンも昼間マイナス5℃からマイナス10℃位。まだ雪は5cm程しか
積もってないが、毎朝市電の停留所から会社まで10分歩くと耳が痛くなる。
でも足の方は、内側に毛がはってある良い靴を買ったので冷たくないが・・・。
アテネ旅行については、前便で書いたとおりで、皆を驚かせたと思いますが
その返事、いつくるかと待っているんですが、多分明日(13日)来ると思う。
ところで今日は喜んでもらえるニュース
今、シーメンスでやってる作業は机上の仕事で研究室から廻ってくる仮試験
仕様書(現場では試験仕様書にしたがって工員が作業する)を我々の課で
機種を手分けし、正式の試験仕様書に仕上げる作業で、これは富士通に
いるとき一時やったことがあり、富士通にはそれ程役立つとは思われないが、
シーメンスには役立っているのは間違いない。
富士通からは金のことをなんとも言ってこない。それにアテネで思わぬ出費
だったので、この10日に課長を通して担当者に次のことを訊いてもらった。
1、この1月末に課の二人が社用でベルリンに3日間出張するが、工場見学を
したいので一緒に連れて行ってもらえるか?(実習はベルリンには行かず、
ここだけに決めたので)
2、シーメンスから金をもらえるかどうか(最初の約束では金はくれないこと
だったが)
1は保留されたが、可能性はほとんどないということ。
2は今のところ富士通から一銭ももらってないということに同情してくれたのか、
とにかく1月から毎月500マルク(4万5千円)づつくれることになった。
その翌日、早速1月分を先払いしてくれた。この要求を課長にいう時は二晩も
文言を考え暗記してとにかく当日はスムースに運んで嬉しかった。
もし申し出なかったら金はもらえなかっただろう。報われた。
富士通に知らせるといったので、富士通からは金はもらえなくなるだろう。
木村君も多分今日ウイーンを経由して日本に帰った。彼の話では1月21日に
横浜に着きすぐ長崎の両親に電報を打って東京にある親戚の取引銀行から
金をもらって22−25日には三木の家にくるそうだ。彼の親父さんは
長崎造船の下請会社の社長とのことで、彼自身は高校を出てすぐ積水化学に
入り、機械の設計をやってたそうだ。でも高校時代に趣味でやってた
軽飛行機(本物)の設計(今まで2機設計し、大学に収まっているとか)
に夢中になり会社を退職し、ドイツに来て実習する計画だったが彼は
英語はできるが、ドイツ語ができないためどこも断られて、結局
中国料理やで少しバイトをやり、帰国することになった。
日本では、彼の友人がグライダーの工場をもっているのでそこで作業を続け
金をためて2年もしたら今度はアメリカに行きたいと言ってた。
彼はモスクワ経由で帰るので紀子に印象をきかせるといい。
彼に手紙と写真、ミュンヘンの地図をもっていってもらった。
ところで前にも話したカラー写真の枠のことだがどうなったんだい。
買ったのかい。こちらではアグファの20枚4DM(360円)
こちらの方が安ければ買って持ち帰る。
年賀状を、手紙にあった人達に後から出しておいた。
ところで僕のところには1通も来てなかったのだろうな。
アテネから出した絵葉書着いたですか、白川さんも
Stuttgartの大学で毎日元気に通っているそうだ。
よろしくと言ってた。
読売文学賞はどうなったんだい。だめだったのかね。
でもがっかりするなよ!
最近カアさんからくる手紙は気が弱くなった手紙ばかりだなあ。
あんまり心細い手紙書くなよ。
とにかく元気だよ
茂 1966年1月12日 夜
ミュンヘン寮にて
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1966年2月1日 (水)
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シーメンス試験課の
仲間
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今日は2月1日
今日から試験課に職場が変った。給料は1月10に1月分をくれたと思ったら
1月28日に(偶然俺の誕生日に)2月分をくれた。とても気前がいい。
木村君が来たという手紙先日受け取り金を返す相手に多少遅れるかもしれ
ないと伝えた。
先週、鼻風邪を引いて1日会社をサボった。別に熱が出たわけではなく風邪を
2,3日前からひいていて偶然当日朝寝坊したので会社に電話してサボった。
一昨日、大熊の所に行って来た。彼も先週風邪をひいて1週間寝てたそうだ。
それまで寒かったのが、先週から気温が上がりそれで皆やられたらしい。
この1週間は暖かかった。
富士通から手当ては出ないことに決まった。というのはシーメンスから十分
もらっているのでM氏がそのことを富士通に知らせたと言っていたので。
もう、2回オペラを見に行った。マダムバタフライやバレーなど。
今日はこれから魔笛を見に行く。
課を変るに際して連中を写したカラー写真の裏に皆のサインをもらった。
オペラはミュンヘンで一番大きなナショナルテアター、皆正装してくるので
とても綺麗。切符は学割(Stuttgartにいる時学生証の他に
4ケ国語で書かれている国際学生証を作らせ大学を辞めた時大学の学生証
だけ返却し、その旧い国際学生証を使い)普通オペラは始まる10分前位に
売れ残った券を学生に全て4マルクで売る。それで運がよければ20マルクの
券も手に入る。
映画館は学割はない。最低、2,3マルクで前から4列目位まで値段は4段階
以上に分かれている。普通の日はがらすきだが、感心なことに正直に皆自分の
買った席についている。
一番安い席を買って一度トイレに立ち、他の良い席へ戻ることも可能なのに!?
すくなくとも日本ならそれが行われるだろうと思った。
映画は皆ドイツ語にふきかえられている。
それでジョンウエインや仲代達也がドイツ語を話す。
富士通のS君が(学院出、同級だった)私費留学でこの2月にくる予定だが
まだ許可証が手元に届かず事務の話だと遅くとも2月20日までに彼に届く
ようにするとのこと。
ゲーテの授業料の払い込み期限が2月3日で外貨許可がおりるのが間に合わず
大熊から1000マルク借りて払い込んでやった。
彼に通知したら喜んでいた。吉本からの手紙見た。そしてアメリカに返事出した。
とにかく 元気になりました 茂
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1966年3月6日 (木)
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3月6日(日)朝8時半 近くの教会の鐘がなり終わったところです。
昨日は降ったり止んだりのはっきりしない天気。今朝は先ほどから陽が
差しはじめた。が空気は冷たい。
土、日と会社は休みなので昨日は大熊(彼は2月一杯でゲーテを終え、
今ミュンヘンに来てる)のホテルに行き、1日だべっていた。夜は一緒に映画を
見に行った。
会社の方は別に変ったこともないので書くこともない。
Mさんはこの11日に帰国するか、あるいは国際会議に日本代表として
出席し4月になるかまだ未定。
僕は4月2日から11日まで(ドイツではこの間連休がはさまってる)4日間休暇を
もらい大熊とウイーン、ブダペスト、プラハと汽車で旅行することにした。
彼とのヨーロッパ旅行はこれが最初で最後になる。ブタペスト、プラハでは
ロシア語がわかる人も少しいるそうで前に習ったロシア語がどれだけ通ずるか
楽しみだ。カタコトだけど・・・。
ところで家の方もずい分変化するらしいね。
松尾さんの転勤、恭子ちゃんが金沢、親父の名古屋行き。
家はいつ建て始めるんだい。そしてさ来年には名古屋に公庫で借りるか、
中古の家を借りるかするらしいけど、新築した家はどうなるんだい。
外人にも貸せるようにするには水洗便所にしましょう。
建て始めるのは、僕が帰国してからになりそうだけど出来れば早く建ててくれ。
いつ完成するのか知らないがミュンヘン市内はあちこち地下鉄工事で掘り
返されてる。多分オリンピックまでには、完成するだろう。
(オリンピックはまだ確定してないけど)
元気だよ ではまた
茂
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1966年3月7日 (木)
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前略
梅の花いくらか匂った。
ガレージがない。どうしたんだい。絶対必要、しかも三方が壁になって雨のあたら
ないやつ。
トイレ、汲みとり式のは止めてくれ。簡易水洗式(8万でできるはず)絶対だよ。
風呂場のタイル忘れるなよ。四方の壁も上の方までタイル。白壁じゃ水が跳ねて
染みになる。
二階にあがる階段、少し工夫してほしい。出来れば、軽金属の手すりのモダンなの。
今迄一番不潔だった所は台所と風呂場だったことはよく知っていると思う。南側に
そっくり移す、所謂Bの風呂場と洗面所はタイルを張りなおしリビングキッチンの
洋間は板を削るかジュータンを敷くかどちらかだ。
食堂と居間兼応接間の境がどうなっているのかはっきりしないけど、食堂および
女中室へ応接間を通らねばならないのは具合悪い感じだけれど、食堂兼台所の
広さは十分ですか。
皆ゆったり座って食べられ、台所仕事も楽に出来るように。2階に下からベルで
飯が用意できたことを知らせるように配線して欲しい。
玄関の扉、防犯装置をつけるといい。例えば内側から外の人の顔が見え、逆は
見えないこの装置は実際に売ってるから、ベルもつけるといい・
洋8を外人に貸す気があるならトイレは様式だ。大小便兼用ですむから、
(2階のトイレの有無がはっきりしないが、有るものとして書いた。)
台所の流し台にはボイラーですぐ湯になる装置を。台所と風呂場は清潔第一に
考えて欲しい。
シーメンスの電話番号はxxxxxx。
これは課で変る可能性大。それで寮の電話・・・・
4月26日から29日は夜5時半以降寮にいるが30日(土)にスペインに向け旅立つ。
汽車でマルセイユを経由し荷物はチッキでマルセイユに預けてスペインに行き、また
戻って5月18日にマルセイユから船出。 茂
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1966年3月24日 (木)
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今日は変な天気、朝のうち快晴だったのに午後から急に曇ってきて雪に変った。
今、会社から帰ってきて清水の荷物の件の書いてある手紙を見て、返事を
書き出したところ。
結論から言うと、フロスト氏宅に入居した富士通のT君は1ケ月で
飛び出して大学の外国人寮に入った、家賃が高いって(フロスト家は
130マルク、寮は85)今、その後に誰が入ったのか全然わからない。
日本人じゃないことは確かです。
Sも多分最初は大学の寮に入ると思うので(Stuttgartに行って直ぐ下宿が
見つかることは不可能に近いので)寮宛に送るとよい。入らなくとも手紙で
Sからその寮宛に通知しておけばうまくいくと思います。
住所は 略
Sにもそのことを知らせます。
3月14日に荷物2個(下着、本)を船便で送った。
みやげ物は何にも買ってないけど、金がないわけじゃない。
これから探すつもり。金があまりそうなのでまず5万円のサキソホンは買う。
紀子にHohnerのアコーデオンでも買ってやるか(船で歸ので重量は157kgまで、
制限はあってないようなもの)とにかく、小さな置物、壁掛け、など飾り物は買って
帰るけどその他何を買っていいのか、親戚には、何かいい案ないですか?
元気だよ
茂
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1966年4月2日 (土)
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1966年4月7日 (木)
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1966年4月9日 (土)
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1966年4月13日 (土)
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一昨日(11日)夜ミュンヘンに帰ってきた。直ぐ大熊といつもどおり中華料理屋に
飛び込んだ。
今回の旅行は芯が疲れた。まずビザはドイツでは取れないのでウイーンで取るのだが、
予定していた月曜日がハンガリーの祭日で大使館が休館、それで3時間ほど待って、
チェコだけ取れた。(ビザ75シリング=1200円)はじめはハンガリーで
チェコのをとる予定だったが、結果的には良かった。それで火曜朝早く大使館に
出かけたらまず特定のReise Buro(旅行代理店)に行ってハンガリーの
T.Cを作ってもらって来いといわれた。(これは、1日いくらの割でハンガリー
で金を使わねばならないことを意味し、結局3日間で2人で約138マルクを
買うことになった。)作ってもらってから大使館に引き返すともう窓口には
20人程の行列、しかも最初のうちは20分に一人位の割でしか進まない。
結局ここでも3時間程待たされて、その場でもらえず午後取りに来いとのこと
何とか夕方4時の汽車に間に合いブダペストに向った。
車中では、何回もパスコントロールがくるし、嫌になった。着いたのは夜8時。
さてホテルを探すのだが、まず駅のReise Buroに行ったら愛想悪く
なんとかホテルを教えてくれた。行ってみると超一流のホテル。仕方なく
そこで他の安いホテルを訊いてみたら2つ教えてくれた。
そこへ行ってみた。満員だった。でもそこのボーイは親切であちこちホテルへ
電話をかけてくれた。最中一人のハンガリー人と知り合いになった。彼も
部屋を探していて、結局同じホテルに行くことになった。
結論からいうとたどり着いたホテルも高かったがもう仕方なく一泊することにした。
そのハンガリー人もそのホテルが高いので気に入らず翌日、一緒に他のホテルを
探すことになった。その晩は風呂付の部屋でゆっくりした。翌日3人で
Reise Buroに行きホテルは高いので個人の家を紹介してくれた。
彼は別のところに泊まったので僕らをその家まで送ってくれその後警察の届けから
市内案内までその日丸1日付き合ってくれた。そのハンガリー人は37,8歳で
化学技術者で仕事でブタペストに2,3日滞在するとのこと。
最後には、土産としてハンガリーのレコードを買ってくれた。
このブタペストの町自体は丁度イタリアの労働者を集めたような町。
がたがたの市電、旧式の乗用車それに質素な服装をした労働者風の人、人、人。
市電は満員、皆鋭い目つき、ハンガリーの国旗と赤旗が街のあちこちに
見られる。
夕方5時、チェコのプラハに着いた。直ぐReise Buroへ。
ここも行列、2時間待ってやっとアドレスをもらった。
共産圏はホテルが少なく民営が多い)そこには1泊しかできず。
主人が旅行に出るのでと)翌日また宿探し、どうにか今度は安ホテルが
見つかり、そこに落着いた。またもしドイツでハンガリーなり、チェコの
金をとりかえていってたならその国に入ってからとりかえる2倍もらえたんだが・・
知らなかったし、見つかれば没収されるとのこと。
ブタペストではドイツ語がよく通じた。
紀子にアコーデオン買わないことにした。
Mさん3月18日に帰国したそうだ。一言も連絡なしに。
4月1日からドイツの郵便料金が上がった。
ではまた 茂
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1966年4月22日 (土)
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いよいよ帰りも間近くなり、毎日なんとなくそわそわして落着かない。
荷物の整理でふうふう言ってるとこ。1月前に10kgの荷物2ケ出したが、
あと2ケ出せる状態になっている。
大熊はStuttgartで日本人が丁度他へ移るので下宿はその後に
入ることになった。Sはまだ決まっていない。
多分寮に入ることになる。先日の日曜日は大熊、S、それにアメリカから
来たI(学院の吉本の友人)と4人で車を借りて郊外の湖と城に出かけた。
I氏が全部運転してくれた。
みやげ物をなにかっていいのか頭を悩ます。
民芸品がいいが、スペインと香港で買う積り、ドイツにはいいものがない。
革製品は良いが高い。船は神戸で下りずに横浜まで行きます。
今日、船の切符ととりあえずマルセイユまでの汽車の切符をもらった。
船名;CAMBODGE
キャビン番号; 303E
航海番号;07.20.6.A
5月18日 マルセイユ発 17:00
22日 ポートサイド着
25日 アデン着
29日 ボンベイ着
6月1日 コロンボ着
6日 シンガポール着
8日 バンコク着
15日 香港着
マニラに短時間寄港
19日 神戸着
22日 横浜着
各港 半日から1日停泊するらしい。
船の荷物をマルセイユに鉄道便で前もって送る場合次の住所に送ることになる。
略
とにかく30日にここを発ち、マルセイユに着いたら多分5月15、16,17と
2,3日のホテルを予約してからスペインに行くつもりなので予約したホテルの
住所決まり次第知らせる。
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1966年4月25日 (月)
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1966年4月30日 (土)
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1966年5月2日 (月)
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1966年5月4日 (水)
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1966年5月6日 (金)
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1966年5月8日 (日)
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1966年5月10日 (金)
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1966年5月21日 (金)
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1966年5月21日 カンボジア号船上にて
海の色がものすごく綺麗。たまに遠くに船が見え、消えていく以外
周りは本当に水、水、水です。この3日間波は全く穏やかです。
17日のフランスのゼネストも既に16日にマルセイユに着いて
いたので支障なく無事乗船できました。
船での食事はドイツの大学食堂のよりずっとましでそれに毎食
ライスが出るので助かる。他に日本人が16人ほどいます。
毎日、卓球、縄跳び、ゲーム、日光浴したりで、夜は映画が
上映され退屈を感じない全く快適です。
日本についたら相当ボケてるんじゃないかと心配になる位です。
荷物はトランク4ケ、ボストンバック1ケ横浜からタクシーだな。
元気です。ご心配なく。
茂
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1966年5月28日 (金)
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前の手紙ポートサイドに上陸してバスでカイロ市内へ行って
スインクスやピラミッドを見た帰りにポストに入れました。
次にアデンで出す予定でしたが、出しそこなってこの手紙
ボンベイからになります。
インド洋に出て、船が少し揺れるようになりました。
それでもまだたいしたことはなく、酔うほどではありません。
食堂と寝室は冷房がきいていますので甲板はものすごい暑さ。
テントが張ってあるが暑い。
毎日、雑談、雑誌見たり、麻雀したりで時間過してる。
時々、映画も上映される。でもそろそろ船の生活にも飽きて
きた。明日はボンベイに着くが陸に上がってみたい。
変ったことはありません。
横浜に着いたらマグロの握りずしとおすましを食べたい。
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